(OB近況)青木知子さん(1979卒) 〜願いは叶う〜

1979年卒業の柴田(青木)知子、チコです。通訳ガイドセクションに所属していました。現在は、アメリカ、カリフォルニア州サンディエゴに住んでいます。

卒業して東京で、日立の貿易部(当時の部署名)に入社。その後、夫の赴任に伴いN J、帰国し2度目の駐在地はアトランタ、そのままサンディエゴに移動し日本に戻り、またサンディエゴへの駐在、通算するとアメリカでの生活が25年となりました。

中学で英語を初めて習った時から英語にとても興味を持ち、外大でもっと英語を学び話す事ができる様になりたいと思っていた私は、入学式の日にE S Sに勧誘され、正に私がやりたいと思っていた通りのクラブがあると知り、即!入部を決めました。大勢の仲間達、先輩方に出会い、英語だけではなく沢山の事を学ばせてもらいました。今でもあの頃の事は鮮やかに蘇ってきます。その全てが今の私の基本になっています。

(ああ、青春)

卒業してあっという間に40年余り!! 50年以上も存続し続けたE S Sに入っていた事、とても誇りに思い、ずっと引き継いで運営していて下さった皆様のお陰と心から感謝しています。
在学中、その頃はホームステイの走りの時代で自分も行きたいと思う様になり、自分達で企画し旅行社とタイアップして実現させました。その頃はロサンゼルスのU C L Aで学ぶと言うのが主流でしたが、私はサンディエゴのU C S Dを選びました。それが将来暮らす場所になるとは! いつか必ずもう一度ホストファミリーに会いたいと言う願いが、駐在先になり、今では自分の子供達やホストファミリーの孫までもが一緒に親しくする様になるなんて夢以上の事です。また、母がこちらに来た時がホストファミリーの娘の結婚式で、母も一緒に招待されると言う偶然には本当に驚きとても嬉しかったです。

ここで暮らして色々な人と触れ合って思う事は、大事なのは、伝えると言う事。心を込めて伝える事。英語で上手く間違えないで話そうとする前に、まずは伝えようとして心を込める。躊躇したり消極的にならず、心を開いて、ポジティブ、積極的に誠実に一生懸命に話す事が一番大切で相手の心に届くと言う事です。同じ人間として世界中の誰と交流するのにも大切な事だと、言語の違う異国の地に暮らしてつくづく思います。

もう一つ、発音!
ヨーロッパ系や他の国のアクセントのある英語発音には、アメリカ人は慣れている様ですが、日本人の英語発音は聞き取りにくく、会話の途中では意味合いとして通じても、急にその単語だけを言う様な時は発音が正しくなければどんなに簡単な単語でも皆目見当がつかない様で、今でも苦戦しています。小さな子供でも発音で綴りを考えるので、正しく発音すれば正しく書けるのです。日本ではなかなか会話をすると言う機会がないので、机上での英語(読む、聞く、書く)はできても、発音となると上手くできないと言う事があると思います。通じる、使える英語には発音は本当に大事です。それでも、まずは心を込めて積極的に相手に伝えると言う気持ちがあっての事で、一生懸命な気持ちがあれば心は通じると思います。気持ちを心を込めて一生懸命に積極的に伝えようとする事が、言葉を超えた大切さだと思います。

2度目の駐在の時は、6年生、幼稚園、1歳8ヶ月、そして8ヶ月と子供が4人になりました。現在も全員がアメリカの各々の場所で暮らしています。何処の者ともわからない、見たこともない知らない私達日本人家族を受け入れ、4人の子供達を周りの現地の人達と同じ様に学ばせてもらえました。言語、文化、慣習、常識の全く違う中で子供達を育てていく事は、その全てがどれも手探りで右往左往しながら本当に必死でした。旅行や留学で滞在するのと、子供を育てて暮らしていく事は全く違いました。帰国後の事を先読みしたりせず、今を見てしっかり地に足をつけて生活し現地に溶け込み、子供達を育ててきました。また、自分達を見て、「これが日本人」と思われると言う事を自覚し、日本人としての責任を持つ様にと子供達に伝えてきました。

長い滞在と子供も4人いたので、アメリカの幼稚園から大学まで全ての門を潜り様子を知る事ができました。 子供達の就学中は私もボランティアで先生のアシスタントとして学校に行きました。 4人のクラスとなると殆ど毎日の様にどの子かの教室にいた事になります。この事はアメリカの教育、文化、習慣、感覚などを子供と一緒になって感じ体験し学ぶ事ができ、私にとって大きな影響と糧となりました。

子供が4人いた事で、沢山の周りの方に助けられて、4倍、もっとそれ以上の貴重な経験をし沢山の人に出会う事ができました。今まで出会った人のお陰で今があると心から感謝しています。
去年、一番下の子供も無事に大学を卒業し全員がアメリカで社会人となりました。長男は、言葉を超えたアートの世界でグラフィックデザイナーをし、長女は大学院でアメリカの言語聴覚士の資格を取り、日本人であり乍らアメリカ人に英語で、私の不得意とする発音や、言語の訓練を施すと言う仕事をしています。 次女はアメリカの大学で学生のアドバイザーという仕事に就き、日本で暮らした年数が一番少なかった次男が日本企業のアメリカ本社に就職しました。皆、アメリカの大学に留学生という枠ではなく現地の学生と同じ様に大学を受験し希望大学に入学し卒業する事が出来た事は、この上ない喜びです。現地校と両立させ乍ら日本人学校に小1から高3まで通い、「二つの文化学ぶ喜び、、、♫」という校歌の通り日本語と英語で両国の教育を習得したと言う達成感は、子供達にも私達親にとってもかけがえのない程の大きな宝です。卒業の時は「正真正銘のバイリンガル」と祝辞をいただいて、強く胸を打たれました。

子供達が皆巣立って行った今、私は、英語が母国語の子供達に、日本語で日本の文化や習慣を教えるという幼稚園で働いています。幼稚園の先生になりたいというのは、幼い頃からの私のもう一つの夢だったのですが、60歳を過ぎてから、しかもアメリカの子供達の為の幼稚園の先生になる事ができ、日々充実して喜びを感じ新しい刺激を受けています。

自分が叶えたかった事、外大に行く、ホームステイをする、英語を使う仕事に就く、アメリカにもう一度行ってホストファミリーに再会する、幼稚園の先生になりたい。願いを持ち続けてそれに向かって一生懸命に進めば、道は開けていくのだと今までの人生を振り返ってしみじみと思います。自分がこの道を進んでここまで来れたのは、巡り合わせや偶然の様にも思えますが、親、家族、私の周りにいてくれた人達のお陰があったからとこれからも感謝の気持ちを忘れず、そして人との繋がりと出会いを大切にしていきたいと思っています。

今アメリカは、コロナに始まり、他にも大きな問題が次から次へと起きています。人種差別問題、私には大きな事はできませんが、自分達もここでは人種の違う外国人、この国に受け入れてもらえた事を感謝しているのなら、自分もどの人種の人達に対しても同じ様に接し、誠意を持って心を伝えていく事が、小さな事ですが私にできる事だと思っています。

この先どうなるか先が見えず不安と心配ばかりが募り心が鬱ぎそうになりますが、必ず乗り越えられる日は来る!と世界中の共通の願いが叶う様にその日に向かって明るくポジティブに進んでいきたいと思っています。

皆様もどうかお元気で。これから益々のE S S、E F E Lの発展をお祈りしています。