(OB近況) 自分の出来る限りを! 久野展子(1984年卒)
「早く食べないと!間に合うかな?」
そう言いながら昼食をかきこみ、急いでジェネラルミーティングの教室に向かった昼休み。気が付けば早食いは私の得意技に!ディスカッションやスピーチの準備に時間を忘れ、真っ暗になってから慌ててバスに飛び乗り、帰宅した日々。そんな英語と隣り合わせの日々を、大切な仲間と共に過ごしたESS時代。英語が好きというだけの思いで入部した私は、もともとは意見を戦わせることや、人前で壇上に立つなんてことが、得意ではなかったけれど、ESSでの日々を通して、どんな状況に置かれても、そこで自分のできる限りをやって相手と向き合うという覚悟、その大切さを学んだ気がします。

写真:卒業するESSメンバーだけの集合写真1984年
大学を卒業し商社に就職した私が、配属されたのは繊維関係の貿易部でした。アシスタントとして担当したのが当時のソ連。ロシア語なんて全く知らなかった私ですが、幸いにも日々の業務のやり取りは英語だし、「何とか大丈夫かな」と思いながら過ごしていたそんなある日、ソ連からの重要なお客様が日本に来られ、そのうちの一人を私が、大阪城に案内することになりました。少し英語がわかる方だとは聞いてはいたけれど、それでもロシア人の方と二人きりになるのは人生初のこと。緊張でドキドキ。でも「出来るだけのことは!」と、ごく簡単なロシア語をメモして、当日を迎えました。どうにかこうにか、中年ロシア人と経験未熟な日本人二人きりの、たどたどしい時間は無事に終わろうとしていましたが、彼がその日の最大の笑顔で喜んでくれたのは、私が片言のロシア語で別れの挨拶をした時でした。「ロシア語で話してくれてありがとう。」ニコニコしながらそう言って、固い握手をしてくれたのです。母国語が持つ重さを感じた時でもありました。
その後、会社を退職し家庭に入っていた私は、2002年から夫の駐在に伴い、家族でベトナムのホーチミンで暮すことに。おびただしい数のバイクで埋め尽くされた、全く信号のない道路(渡るなんて無理!)、毎日繰り返される計画停電(止まったエレベーターに閉じ込められること何度も!)、部屋の中にいる何匹ものヤモリとの共生(時には天井から降ってくる!)、ネズミが走る姿を見かける市場(見なかったことにする!)など、当時のホーチミンはまだまだ発展途上でした。それでも環境には慣れていくものです。ただ、ベトナム語にはなかなか…でした。
まだベトナム語が分からないまま市場へ買い物に行った時、買いたいものは指差しで伝えられたものの、店のおばさんが言ったベトナム語での金額が分からず困ってしまい、仕方なく財布に入っている紙幣全部を取り出し、店のおばさんに見せました。彼女は一瞬驚き、ちょっと面倒そうな顔をして、それでもそっと数枚の紙幣を抜き取って、お釣りをくれました。それから一生懸命ゼスチャーで、「早く財布をしまう」よう伝えてくれたのです。仏頂面だけど「財布取られるよ」と忠告してくれているようでした。その晩、そのままではいけないと思った私は、翌日また市場の店へ行き、彼女に一夜漬けのベトナム語で一言お礼を伝えました。「昨日はありがとう」と。すると、おばさんは、昨日の仏頂面とは打って変わって、くしゃくしゃの笑顔で抱きつき、頬を合わせてスリスリしながら「どういたしまして」と言ってくれたのです。ほんの一言でもこちらの気持ちを分かってもらえるのだと、実感しました。それから私はベトナム語を勉強することに。発音が難しく周りと流暢な会話が続くまでには程遠かったけれど、市場での買い物に苦労することはなくなり、そしてベトナム人の優しさにもどんどん気付いていけました。

写真:ベトナムにてアオザイで記念写真(右側:友人)
振り返れば、学生時代には思ってもみなかった言語との出会いもあったけれど “自分の出来る限りで相手と向き合う” ESS時代で根付いたこの思いで過ごしてこられたからこそ、他国での忘れられない体験を得、多くを知ることが出来、人々と触れ合えての「今」があると思っています。私は今、スペイン語を学んでいます。長男が仕事でスペイン留学したことをきっかけとし、学んでみようと一念発起!昔よりは格段に錆びついてしまった頭で泣きそうになること数えきれないけれど、今の自分にきる限りを続けていきたいと思っています。

