(現役生へのエール)亀田真二(1989年卒)自分との約束を果たす旅

Septemberを口ずさむ小学生

関西外大が開学しESSが創設された1966年に私は兵庫県明石市に生まれ、本日2021年11月27日に55歳を迎えた。このタイミングでEFEL会に寄稿する機会を頂いているのもやはり有難いご縁。55歳と言えばひと昔前は定年退職に達する年齢。サザエさんの磯野波平が54歳なのでそれをも越えてしまった。私は現在アメリカ・カリフォルニア州アーバイン(ロサンゼルスから南に車で1時間)という町に住んで日本の電機メーカー米国支社に勤務しており、こちらの生活は早くも8年が過ぎようとしている。

振り返るに、私は小学生の頃から英語が好きで、いつか英語が母国語のように自由に使え理解できることを夢見てきた。その源流にあるのは好きな音楽との出会。Earth, Wind& FireのSeptemberという曲を小学生の頃に、当時はラジカセで何度も繰り返し聴いた挙句に全ての歌詞を聞こえるがままカタカナでノートに書きだし暗唱した。アルファベットを習うかどうかの時期ですから、とにかく意味も何も全くわからないわけです。恐らく聞くだけでは物足りず声に出して歌いたかったのだろう。リズミカルなビートに刻まれた独特な英語の語感やリズムを自分の体や頭の中に吸収消化したかったのだと今になって思う。周囲の友人からは“何それ?どこの言葉や?”と笑われたりもした。高校生の頃には毎朝欠かさずNHKの続基礎英語、東後勝昭先生のNHK英会話、百万人の英語のハイディ矢野先生、英語劇で有名な野村陽子、遠山顕先生らのFar Outというラジオ番組を夢中で聴きいった。少しでも本場の英語を学びたいという思いに溢れた高校時代。当時、特に感銘を受けたのは國弘正雄先生の只管(しかん)朗読。これは 全ての語学教育に通じる道ではないかと今でも感じる。(要は音読が重要というわけです。詳しくはネット検索すればでてきます)かくも英語学習とラグビーに明け暮れた高校時代、残念ながら数学や物理には興味が持てず苦手意識が残るのみ。よって大学は私立文系でたっぷり英語に専念し留学の機会もある関西外大を選ぶということに。

 

自分との約束

関西外大に入学してからすぐにその授業のレベルや内容に物足りなさを感じ、失望したことを覚えている。そしてそれを補い少しでも英語漬けになる為にESSへ入部。政治経済セクションではディベートを経験、松本道弘先生のディベート関連の著書に傾倒。後に交換留学先のWestern Kentucky Universityでもディベートクラスを履修。毎回の授業で事前に示された命題(Proposition)に対して 肯定側と否定側の双方に対するエビデンスやロジックを準備(事前にパートナーを決められたていた)しクラスに挑むという刺激的な授業だった。図書館でリサーチ(当時インターネットは無い時代なので、図書館にあるマイクロフィッシュと呼ばれる記録媒体と格闘し)の為に夜遅くまで準備したものだ。アメリカのキャンパスライフというと聞こえはいいが実態は、楽しそうに遊んでいるローカルの学生を横目に寮と教室、図書館の3箇所をグルグル回っているだけの悲壮感溢れるもの。今のようにインターネット、You TubeやSNSは無い時代で高価な国際電話か紙のエアメールしか日本とのコンタクトが無い時代である。もちろん近隣には日本食レストランやスーパーも皆無。寂しい夜は持参したラジカセで松任谷由美のカセットが擦り切れるほど聴き夜空の月を眺めつつ日本を想った。学生数2万人近いがなにしろ田舎の大学、日本人はたったの5名。よって留学中は日本語を聞くことも話すことも全く無い期間となり現在のアメリカ生活とは隔世の感が。そして、1988年留学を終えて日本に戻る時に自分に課した約束が一つ。それは、“いつかアメリカへ仕事をする為に戻る”でした。

 

ESSの合宿にて(センターが私)          留学時代

 

社会人としての現実と対峙

そんな学生時代もあっという間に終わりを告げ社会人へ。1989年はバブル時代のピーク。アメリカに拠点を持つ中堅規模の会社の門戸をたたき、運よく現在の会社に入れて頂いた。しかし待っていた仕事は国内の営業職。しかも高校時代に決別したはずの苦手な電気や光学に関する事を理解しなければならない。何度も自分に不向きであることや、自分の強みを生かせないことにいら立ちを覚え転職を考えたが思い留まった。理由は至極簡単で、結局英語で飯が食えるという世界はプロの同時通訳や翻訳家くらいでしかもごく一部。英語ができることは副次的にアドバンテージがあるだけで、それよりも入った会社や業界のそれぞれの道のプロになることが第一であり英語は二の次。英語ができようとできまいとその道のプロにならなければ使い物にならないのが現実、というごくごく当たり前の現実にようやく気が付いたというか目が覚めた。当時の私は 全く幼稚で会社の先輩にしたら“勘違いした英語屋気取りの生意気な新入社員”だったと思う。このようなオンボロ社員に忍耐強く向き合ってくださった当時の会社の諸先輩には感謝しかない。入社3年目くらいで、ようやく “この会社で求められる人材になること、そしてその付加的な機能として英語を生かせば良い”というマインドセットに頭も体も切り替えができた。

 

自分との約束を果たす アメリカ駐在員として

会社では当時から新規事業をいかに創り立ち上げるか?という事に価値がおかれ そのチャレンジに対して幸運にも自身でいくつかの成果を出すことができた。その中で大切な事は、好奇心旺盛に学ぶこと、文系や理系の枠を超えて新しい知識や情報に対して貪欲に学び、いかに会社の製品やコア技術と世の中のニーズをリンクさせるか? そして、それらの仕事の延長線上に、“亀田をアメリカに送りこめ”という当時の社長の指示があり、47歳にしてアメリカ支社へ派遣される機会に恵まれた。“いつかアメリカへ仕事をする為に戻る”という25年前の約束を果たす機会が到来した。その赴任1年後CEOに就き、一方では新たなビジネスの種に出会うことに。今振り返ると、このタイミングは絶妙であり実に“満を持した”ものだったと感じる。半ば諦めかけたことがあったが、逆に若い時代に派遣されずに良かったとも感じている。

USHIO AMERICAにて

 

世界が注目する新規事業へ

CEOとしての仕事よりも、実は新規事業を作り出すことに個人的に熱量がある私は新規ネタを求め常にいくつかのアメリカの大学やベンチャー、M&A機会に注目してきた。その中でニューヨークのコロンビア大学のある先生と知り合う機会があり感染予防技術として、“人に安全な紫外線”の基礎となるアイデアと出会うことに。カリフォルニアからニューヨークへ頻繁に通い出したのが2014年、後に日本本社の技術開発部門と連携し活動を始めた。プロジェクトを立ち上げマーケッティング活動を経て、6年後の2020年に製品として完成。まさに殺菌技術の製品がパンデミック最中に完成しリリースとなった。この事は世界のニュースとして伝えられ米フォーチュン誌からは“世界を変える技術”の一つに選出され(日本の会社としては初の快挙)多くのメディアにも取り上げられることに。当時終焉近いトランプ政権下ホワイトハウスからも連絡がありオンライン会議を行った。当然会社も驚いていたが誰よりもこの私が一番驚いた。現時点ではまだまだ事業としては未熟で始まったばかり。自身としては0から1を作る重要な役割を果たせたと感じている。新規事業をゼロから作ることにロマンを感じてきた私自身が英語を道具として駆使し、このアメリカでこのタイミングでこのような機会に巡り遭うことを誰が予測できたか。世界初の“人に安全な紫外線技術”を応用した製品が北米のあらゆる病院や学校で感染予防の為、採用されアメリカ文化の一部になること、また世界の感染予防のスタンダードになる日を夢見て日々ワクワクしながら仕事をしている55歳ESS OBの話はここまで。

https://www.greenbergglusker.com/in-good-company/qa-with-ako-williams-of-ushio-america-care222-far-uv-c-disinfection-technology

 

現役生の皆さんへのメッセージ

現役生への皆さんにお伝えしたい事は:

  • 是非ディベートに挑戦することをお勧めします。
  • チームワークを経験し人との関わり方を肌で知る事。究極的には 苦手な人や嫌な人とどうやって協力し目標を達成するか?この経験できればそれは財産になります。嫌な人と出会ったらラッキーと思いましょう。
  • 理系の分野でも苦手意識を持たず何でもチャレンジすること。簡単ではないですが諦めずに継続すると自然に興味が持てるようになります。得意な分野を持つこと、英語の論文を読み、その業界の生態系を把握し知識、情報に精通すること。分からない事はわかっている人に聞けばいいし大体の答えはネットにある。
  • インタ-ネットが生まれた時からある皆さん。学びの機会はネット上に無限にあります。大学や専攻にとらわれず自分の趣味ややりたい事の実現を心がけて下さい。オンラインでアメリカの大学の学位も取れるしCertificateも取れます。ただし学位を取る事がゴールでは無いことに注意。
  • 最初から自分にあった仕事というのは無いようです。(ただし最後まで信じ込めればOK。私の弟は若き頃にこの道しか無いと断言し実際に競輪選手になりました。そういう例外はあります)。出会った仕事を好きになる方がいい。その為には好きになる為の努力を怠らないこと。では努力を継続する為のコツは何か? 恐らく少しでも好きになればいいのです。では好きになる為のコツはきっと心が耕されている(Cultivateされている)ことです。耕されていると、どんな種でも芽が出るんだと思います。逆に耕されていない心には水や栄養があっても芽がでません。そんな耕された土壌(心)を自身に持てることが人生の目標でもあり多用な社会で生きていく上で幸せになる為のコツだと思います。