(OB近況)北尾妙子(1975年卒)~英語と音楽が私の人生を支えています!

ESS時代のスピーチが、私の人生の基本となった

1975年3月、就職した会社の入社式と研修の為、私は関西外国語短期大学の卒業式には出席できなかった事を思い出しました。

あれから46年の長い月日が経ちました。仕事、家庭、子育て、トリプルの立場を目まぐるしくこなしてきましたが、今は自分だけの生活と自宅で可愛い生徒の個人レッスンの英語教室をして、ゆっくりとした時間の中で過ごしています。

卒業後、近畿日本ツーリストで4年勤めました。当時、海外旅行の団体ツアーは右肩上がりの時代でした。配属は海外グループツアーセンターでした。 手配は今と違って、ネットがない時代です、手紙、電話、テレックスを駆使していましたから、今から考えるとびっくりでしょうね。

ESSではディスカッションセクションに所属していました。 又その頃、私がしたスピーチのテーマが「女性の自立と生き方」でした。 その時のスピーチの内容が、私の人生の基本となる考えになりました。

(ESS時代の春の合宿)

 

エレクトーンとの出会い

旅行社時代、大阪府堺市泉ヶ丘に単身者の為の雇用促進住宅「ヤングタウン」と言う街があり、その女子寮から大阪市の上本町まで通っていました。 まるで、学生寮のようで、そこでも英語サークルに入り、色々な会社の方と友達になり、英語劇をしたりして、学生の様にわいわいやっていました。 ある時、何処かの部屋からビートルズの音楽が聴こえてきたのです。それがエレクトーンだと知った時、凄く興味を持って、仕事を始めて一年目で頭金10万円、多分40万円位の機種だったと思います、残りはローンで、思い切ってエレクトーンを購入、本格的にやりたい気持ちが芽生えました。

ヤマハ堺東センターに通い、映画音楽、ポップス、ソウルも、ディスコも手当たり次第弾いて最後にどうしても気持ち良いと感じたのがジャズでした。 ジャズはカッコ良い!アドリブとスイング感がたまりません。 本当にジャズが好きなっていきました。 当時ヤマハも楽器を売る為に講師を増やし、生徒を増やしていました。 講師になって、結婚して子供ができてもこれだったら仕事として家でできる。 家庭と仕事の両立です。 子供が学校から帰った時に、お母さんが家にいてやりたい、と思っていました。 子供に「おかえり!」って言ってあげたいと思ったのが、家で出来る仕事だと考えました。

 

エレクトーンの勉強をしながら初めての英語講師スタート

4年間勤めた会社を辞めて、エレクトーンの勉強をしながら、アルバイトで週3回小学館の派遣講師の仕事をしたのが、初めての子供英語教室の仕事でした。 生徒募集は小学館の営業マンが集めてくるので、今から考えると面倒な営業や事務が無かったので、講師の仕事だけは楽だったかもしれません。 あくまでも、英語の仕事はアルバイトで、やりたい事はエレクトーンでした。

何しろピアノは中学生になる時やめてしまって、ヤマハの教室では、周りは音大卒の人もいて、ピアノを弾いてきた人ばかりでした。 私は演奏力も無く、音楽理論もコードの事も何も知らない状態で、講師になりたい、ただそれだけで頑張りました。 曲だけではなく即興、初見、モチーフ演奏等の練習をして、演奏グレード5級を取得した後、1982年、夫が東京転勤になり、その年の夏、長女が産まれました。 横浜に引っ越し、誰も知り会いの無い土地だったので、子育ては心細く、そのうち堺市泉北ニュータウンとそっくりの街、自然と共存した街で治安も良く、子育ても安心な街、千葉ニュータウンに引っ越すと、なぜか安心しました。

(小学校派遣講師のレッスン・堺市)

 

英語とエレクトーン講師の二足のわらじ

1985年、長女が3歳となり、新聞でECCジュニアの講師募集を見て友達に子供を預かってもらい、千葉市まで研修に通いました。 あの時、友達が「子供を見てあげるよ!」って言ってくれたお陰で今があります。 フランチャイズのシステムなので、基本、募集は自分次第。 近くの集会所を借りてスタートしました。 15名程の生徒さんが集まり、翌年2クラスから一年目が始まりました。

同時に、ヤマハピアノの営業がニュータウンにセールスをかけてきて、新しいエレクトーンを買う条件で生徒さんを募集しますよ、という事になり、その出会いで、どんどんエレクトーンの生徒さんが増えてきました。 その頃バブルで東京の土地が高騰して、ここ千葉ニュータウンの人口が増えてきたのです。

すると、周りにはピアノの先生は沢山いましたが、エレクトーンの先生はいない条件が重なって、こんな私でも生徒さんが増えて、実力無いのに、ある意味ハッタリです(笑)。 それまで自分では、頑張って、演奏グレード、指導グレードを勉強してきたので実践でやり続ける事だと思い、自宅でエレクトーン教室をはじめました。 つまり、英語とエレクトーンの二足のわらじでスタートです。

その頃自分のレッスンに銀座まで行き、千葉のヤマハにも研修に通いました。 ヤマハも2年毎に新機種を発売して、気が付いたら音楽と言うより、電子機械を追いかけている事に私も気持ちが少しずつ揺れてきました。

エレクトーンの発表会の為に何曲もスコアー作り、夜も寝ないで、ドラムの音作り、レジスト(音)作りを頑張りましたね。 その時の音に対しての感覚が、後になって、英語の音の感覚に繋がって行きます。 データ作りは今では考えられない程地味な作業です。 ドラムの音を作るのに、先ずバスドラムの打ち込み2小節、次にスネアー、ハイハット等と上乗せして足していきます。 それを繋げてドラムの打ち込み作業完成。 フルートの音色には息の摩擦音をどれ位にするとか、ビブラートをどの位かけたら良いか、どの音とどの音を重ねると、どんな感じになるかとか。 しかもまだフロッピーでデータ保存が出来ない時代、何とテープレコーダーを利用しました。 そして、フロッピーの時代を経て、次はUSBとなりました。 今では勿論エレクトーンはWi-Fiと繋がっています。 データ作りは好きではありませんでしたが、最新の機種は思った程難しく無くなっています。 音に関しては素晴らしく生の音に近いです。 ヤマハの技術は素晴らしいと思います。

時代の流れで世の中は子供の英語教育も盛んになってきました。 機械を追い掛けるのはやめて、少しずつ英語にシフトチェンジする事にしました。 千葉県でも学力の高い中学校のある地域でしたので、ある意味、地域と時代に私は恵まれ、お陰様で私自身が育てられたと思っています。 そう言う意味では運が良かったのだと思います。

エレクトーンも英語も地域と時代のニーズが後押ししてくれました。

1995年あたりからは英語の生徒が毎年増えてECCジュニア教室として、1週間で会う生徒は80名ぐらいいました。 更に、市の生涯教育で60歳からの英会話サークル、シリーズで夏休み子供英語教室の講師を依頼されました。

ECCジュニでは、テンション高い3歳児クラスから始まって、中3生まで5コマこなした後は、クタクタで疲れがマックス。 喋り過ぎです。 頭をクールダウンする為に夜中に散歩していました。

(ECCジュニア発表会)

 

生徒がレシテーションコンテストで金賞!

千葉ニュータウン地域で私が最初のECCジュニア教室だったので、後から続く先生方とコミュニティを作って一緒に勉強していこうと思い、仲間作りをしていきました。

この地域は優秀な生徒が多くて、毎年、大阪で行われるECCジュニア中学生全国暗誦大会に5回選ばれ、銀賞、金賞を頂きました。 1回目、2回目は入賞できませんでしたが、それでも全国1万教室の代表です。 千葉県でも1〜2教室しか選ばれなかったと思います。 3度目には第2位、4度目には、前日に京都で遊び、銀閣寺に行って銀賞! 5度目には、じゃあ、金閣寺に行けば金賞取れるかなって言う事で、これがビックリ、本当に金賞を取る事ができました。

しかし、これにはすごい失敗談があります。 大阪での大会、前日の朝一番の始発で、「千葉ニュータウン中央駅」を出発です。 参加者は、中1生の選ばれた本人、生徒のお母様、生徒のお友達と私。何と、私は仕事が終わって、準備し、夜遅くに寝て、翌朝、電話のベルで起こされました。 リリリーン!「先生!駅で待っているんですけど!」と。 「えー!!」私はぐっすりまだ寝ていたのでした。 ビックリしてやっと目が覚めて、着替えてノーメイク、超スピードで家を出ました。 わーやってしまった!(汗)。  でも京都で降りて、金閣寺で金賞が取れますように拝んで、大阪に泊まりドタバタ旅行にも関わらず翌日の大会で、何と金賞です!

もう一つ私が嬉しい事は、このクラス皆が応援してくれた事です。 一緒に行きたいと、同じクラスのお友達が、自分のお年玉を貯めた中で旅費を出して付き添いしてくれました。 いい仲間ですね。 でもまあ中学生の女子が集まると、大体「ちょっと聞いてよ!  先生!」から始まりますが。

 

(ECCレシテーションコンテスト中学生全国大会) (ECC全国大会金賞)

 

スピーチは音楽の演奏と同じ

ESS時代に一年生の時レシテーションコンテストで選ばれた事、後でスピーチをした事、そして後になってエレクトーンをやっていた事全てが繋がっていたと気がつきました。 点と点が線になった感じです。 私にとってスピーチは、もちろん内容が一番なのですが、音楽の演奏と同じなのです。 イントロがあり、聴かせどころがあり、エンディング。 そして、余韻。 もっと言うと、マイクテストから始まり、そこでもう審査員は決めているからね、と生徒には言っています。

中学生のスピーチでは、内容、発音、流暢さ、態度(印象)、暗誦、声の大きさなどで得点され、特に発音は減点方法で、少しのミスも許され無いのです。 音楽のノリ感、フレーズ感、アクセントも大事だけど、力の抜け感、ビート感、クレッシェンド、デクレッシェンド、リット、ブリリアント、つまり、私にとってスピーチは心地よい音楽と一緒です。 凝縮した内容を音楽的に乗せる感覚です。 それから、間の取り方、聴いている人が飲み込める時間を与える事。 そして、これは持っている人はラッキーですが、声の質です。 透き通った、遠くまで届く明るい心地よい響きが出せる事。 男子は、声変わりの移行時は難しいです。 ちょっとしたところで、声が上ずったりします。 但し、女子が多い中では、男子の声には優位性があります。 音は高い方には得意性が少なく、低い音ほど豊かな個性が出てきます。 英語を音楽のように、楽譜の様なのもので表せたら、いいなって思いますね。

スピーチをする上で特に感じて欲しい事。 それは舞台に立って、自分がとても幸せだと心から感じて欲しい。 ここにいる事に感謝して欲しい。 聴いて下さっている観客に感謝して欲しい。 良い影響を与える人になって欲しい。 そこまで思えるまで、自信をつける為には練習、練習、練習、イメージトレーニングを繰り返す事。 そして、極め付け、「最後は笑顔でね!」です。 今は自宅の生徒が学校代表でスピーチコンテストに出るとなると、私の役割は主に音声面です。

 

独立して自宅で英語教室スタート

ECCジュニア教室は勤続20年のご褒美として全員でハワイ旅行に招待されます。 結局、私はここで切りをつけて辞める事にし、隣りの市に引っ越しする事にしました。 ECCジュニアを辞めて、本当に少ない人数で、自宅で教室を始めました。

小学生は英会話としての教材は見つけられましたが、結局、中学生のニーズは会話ではなく、学校の補習としての役割と入試の為、英検がメインになってしまいます。 文法を教えていると、どうしても日本語で説明、英語の発音まで下手になってしまうので、教科書の音読を強化します。 又、今年2021年度から、中学生の教科書がガラリと変わり、中1生では小学校からの会話が文字でも理解するところから始まり、文法理解では無いところからでスタートします。 自己表現と会話から始まり、テストではbe動詞も一般動詞も、現在形も過去形もごちゃまぜで書かせる事になります。 ここに中1年生の難しさがあります。

(英語教室、自宅でクリスマス会)

 

英語が大好きになってくれて、ありがとう!

レッスン10分前には、私は「変シーン〜!」と儀式します(笑)。

子供たちは楽しいと言う感覚が無いと、脳は受け入れて英語を好きになってくれません。 それには、全体力を使って、私自身楽しむ事が前提です。 そして、まず新学期始まって5月頃、この時期が誉め殺し月間です。 これから1年間伸ばす為に、ここで How wonderful pronunciation !! 「こんなに綺麗な発音できるのはすご〜い!」 You have a good memory !! 「素晴らしい暗記力!」 Wow ! You can read!! Excellent !! 「エッ!読めるんだ!すご〜い!」 生徒ひとり漏らさず褒めて褒めまくり。 これは生徒さんの良いところ探しの期間です。

これをすれば、後の一年は楽にレッスンが進むし、子どもたちは伸びていきます。 何より楽しんでくれますが、中学生は一筋縄では行かない事もあります。 やはり現実問題、先ずは成績です。 個人教室を始めて、その子のニーズに応えてあげたいと思いました。 平均点以下の生徒の親御さんの、どうにかして下さい!の要望。中2生の特に男子の反抗期を目の当たりにしててこずる事。 色々有りますが、ここに来ている子は縁があって出会った子供達、少しでも良い影響を与えて、次に進んで欲しいと思います。

2020年春の緊急事態宣言で大わらわの時を超えて、マスクをして、今まだにビニールカーテン越しでのレッスンです。 マスクを着けた生徒さんの表情は難しく、反応は目だけが頼りです。 今でも何人かはFaceTimeかLINEでレッスンしています。 コロナ禍で、中3生が卒業していき、今年は生徒さんも減ってきましたが、最後の生徒さんが終わるまで、フェイドアウトかなって思っています。

卒業した生徒さんに、「先生は普通の塾と違って、いっぱいアウトプットさせてくれて、本当に楽しかった。」と言われ、嬉しいです。

結局、幼児・小学生・中学生に英語を教えて約40年です。 長く付き合った生徒で10年以上、数年は毎週、毎週、その子と時間を共有して、成長を見てこられた事は、喜びでもあります。

高校から英語の方向に行った子もいれば、とりあえず、中3で卒業して行く生徒を見送って、その後、大学生、社会人になって私より遥かに実力を付けて成長した生徒が大勢います。

成績、英検、スピーチコンテストで一喜一憂してきましたが、英語が大好きになってくれて、良かった、有り難う!です。

まだ現在進行形です。楽しみで好きな仕事を続けられて有難いです。

 

両親の思いに恩返しするつもりで英語の先生を継続

関西外語短大時代、父が入学の時下宿の為に揃えてくれた電気製品・タイプライター・テープレコーダー等々、そして毎月欠かすことなく現金封筒で3万円を送ってくれた、その思いに恩返しするつもりで、今、私はこの仕事をしています。 余りにも忙しい時代には、そんな事は思う暇もなかったですが、歳を取るに従って、両親がどんな思いをして私を育てくれ、見守ってくれた事が分かり、今更ながら感謝しています。 私が幸せに生きている事が恩返しです。

しかし、人生はそこまで思ったようにはいかなくて、父、母の死、さらに夫の病気と死。 それでも、私には仕事がありました。 結局仕事をする事で、少しずつ心の軌道修正が出来たのだと思います。

それから、娘の結婚。 ただ宮城県に行ってしまって、側にいないですが、日本ですからまだ近いです。

 

コロナ禍でオリパラのボランティア辞退、これからの夢

数年前に又新しいエレクトーンを買い、今度は機械の中を覗いて、音作りやドラム選び、アレンジ、データを作る事も楽しくなりました。 全くの趣味で弾いています。

早くコロナの心配が無くなり、13年前から始めたジャズヴォーカルや、教会でのゴスペルもできる世の中になって欲しいです。 都内にヴォーカルのジャズセッションに行く楽しみも無くなってしまいました。都内には素人でも十分楽しませてくれるお店があるので、ジャズヴォーカルサークルの友達と楽しんでいました。

実は、2019年春に東京オリンピック、パラリンピックのボランティアに応募して、何度か研修を受けました。 場所は成田空港で、内外のお客様の案内です。せっかくの東京オリンピック、何らかの形で参加したいと思ったのが動機です。 しかし、その先にコロナウイルスの脅威が世界を一変するとは思っても見なかった時です。 その秋までは、皆で盛り上げようオリンピック!と言った希望がありました。 制服のサイズも測り、そんな矢先でした。

私の希望場所が成田空港ということもあって、残念ながら、結局ボランティアは辞退させてもらいました。

世界中のコロナ禍で、価値観も変わり、自由に動けない時代となりましたが、変化に対応する科学の力が驚異的に進んでます。 2021年秋になって、日本はコロナ患者が減ってきましたが、この先は世界がどう変化していくのでしょうか。

私の夢は、その地域で暫く暮らす滞在型の旅をしたい事です。 ただの旅行では無く、その土地と土地の人とのコミュニティーケーションを楽しめる様な滞在型の旅です。 実は7年前、60歳の還暦の記念に、ヴァンクーバに一カ月間行ってきました。 ホームステイして、語学学校に行き、次の人生のスタートと、自分に理由付けしました。 この独りの時間を思う存分味わって、本当に自由を満喫しました。 まだまだ日本で行ってない所だらけです。 元気なうちに暮らすように旅をしたいです。 人生の終盤の前にもう一度、青春の時のように自由に過ごしたいです。

(東京オリパラ2020ボランティア研修)

 

思った事は現実化する

ESS時代の私のスピーチの内容を思い出し、結局その通りに自分の人生を歩めてこれたかもしれない、不思議な感覚を覚えました。 やっぱり、思ったこと事は現実になる事は本当なのかな。 そして、女性が仕事をする上で時代の常識を一歩進めていき、男性、女性が協力共存しうる社会であって欲しいと願います。 思うに、女性は仕事も子育ても家庭も介護も頑張らなければならない社会通念だった為に、歪みが出来、ワンオペと言う言葉を聞くようになったのではないかと思います。 是非、コオペレーションが普通の社会になって欲しいです。

2000年から始まった介護保険制度ですが、遠い昔ディスカッションセクションで老人問題をテーマにしていた事を思い出しました。 ジェンダーに付いての問題も社会の表面にすら現れて無かった時代から、私たちは変化の中で生きてきたのだと、改めて感じました。 地球温暖化を少しは感じていた頃から、私たちは、ここで止め無ければもう全てが破壊されてしまう、重要な時代に生きています。

人生が長くなり、家庭、健康、経済、仲間、環境が思い描いた良い状態になれる様、願います。

(趣味のエレクトーンでエンジョイ)

 

EFELの皆様、そして現ESSの皆様、どうぞお元気で益々のご発展をお祈りしています。

皆様がお幸せで有ります様に!