(OB近況) 国吉正幸 1992年卒 [興味から始まったもの、そして得たもの]

関西外大ESSとの出会い:
関西外大へは英語の特技入試枠で入学。IGCかESSのどちらかへの入部が条件でした。通訳ガイドだけに縛られたくないとの単純な思いからESSに入部を決めたのがESSとの出会いでした。English Studying Societyと言われてもピンとこず、単に残った方に入部したというだけでした。入部後、ジェネミに参加。そこでマックというニックネームを頂き、以来、ずっとMac Kuniyoshiを使い続けています。入部当初は学ディスセクションでお世話になり、後にスピーチセクションが設けられた時にそちらへ移籍。大学時代に始まったESSとの繋がりのお陰により、今でもこの様な機会を頂いています。

初めに:
2013年に、同窓会のホームページに「学生時代と今」というテーマで寄稿させて頂き、学生時代からその時に至るまでをざっくりと紹介させて頂きました。「その後」でご紹介できることといえば、2019年1月に母校の立志式にスピーカーとして参加した事。何十年も後の後輩を前にスピーチをさせて頂いたという貴重な機会でしたので、その時に話した事とその時にはあまり踏み込まなかった事について、僭越乍ら、ご紹介させて頂こうと思います。
1998年にイリノイ州に化学品専門商社の駐在員として赴任。数年後、現地法人のコスト削減が目的で駐在員の本帰国命令の内示が出たタイミングで日本の本社を退社。以後、現地社員として再雇用して頂き、その後、転職。現在もその時の転職先の日系メーカー商社で勤務しています。

貴重な体験のはじまり:
話が浮上したキッカケは、娘に日本の日常生活を少しでも経験させたいと考え、中学2年、3年と高校1年の夏休みに1ヶ月間実家に送り込み、ダメもとで、期間限定でクラスに座らせて貰えないかと母校に相談した事からでした。昔、在学中にお世話になった先生が教育委員会で勤務されており、色々と調整して頂いたこともあったので、娘が高校1年の夏に訪日した際、私も一時帰国の上、改めてご挨拶に伺い、「来年の立志式のスピーカーとして後輩に経験話や苦労話のエピソードを話話してもらえないか。英語の話に絡めてどうやって今に至ったかなどを話して貰えれば有難い」と切り出されたのがこの貴重な体験の始まりでした。実家は広島県の山間部、近隣の市町村が合併した過疎化の進んだ小さな町。母校の現在の生徒数は50名程度だそうです。私が通っていたころは1学年に30名程度のクラスが3つありましたから、全校生徒では270名ぐらい。在学中に立志式という行事を私自身経験したかは記憶しておりませんが、この立志式では様々な分野で活躍されている卒業生をゲストスピーカーとして招待し、中学2年生の子たちが「志を持ち、将来への指針と意思を持てるように」苦労話、将来に向けてのアドバイスをしてもらう様にお願いしているとの説明があり、時間は50分フルに使って構わないのでその前提で準備して欲しいとの事でした。実際には「英語縛りのエピソード」がお題でした。中学の時、高校の時、「英語が好きで好きでたまらない子」として特に当時の先生の間では有名でしたので、山の中の田舎町という制限された環境の中で、どの様に「英語」にかかわって来て、今海外に住んでいるのかを紹介して欲しいというのがポイントでした。

当日:
興味から始ままったもの、そして得たもの」というテーマで話を進めました。オーディエンスは30人ぐらいだった様な気がします。ステージに立って人前で話すのは大学時代のスピーチコンテスト以来。当時はオーディエンスが多いほど、人前で話すことが楽しいと感じていましたが、何十年ぶりにほんの20−30名の子供たちの前で話す事に程よい刺激と緊張を感じた次第です。

 

スピーチは、英語に興味を持った明確なキッカケから始まり、モチベーションを持ち始めた時期を超え、目指したいものが徐々に見え始め、それに向かって何をやって来たかという事、そして、学生から社会人に変わる時の葛藤、社会に出てからの思いと英語に対する位置づけが変わった事、そして大人になるために恐らく必要なマインドを持つという事につき、50分間お話しさせて頂きました。

 

漠然とした興味:

小学生の時に、ゴダイゴというグループがTVドラマの「西遊記」のテーマソングを英語で歌っており、「Born from an egg on a mountain top..」という歌い出しに、まだローマ字と英語の違いもよくわからない中で異様に魅かれたのが始まりでした。今考えればかなり大変なお願いだと思うのですが、当時中学生だった従妹に歌詞をカタカナにしてもらい、下敷きに挟み、常に持ち歩き、覚えて一緒に歌おうしたのが英語に対しての生まれて初めての行動でした。

 

モチベーション:

中学時代、自分が言いたい事を英語で表現したい思いが日々強くなり、授業中よりも休憩時間や放課後に先生にくっついて授業には関係なく、自分の興味のみをドンドン質問しモチベーションをあげていった時でした。オフコースや中島みゆきなどのフォークソングを文法無視で、英語の単語に置き換える事に興味を持ったり(我流ですが)、当時、聴き取れもしないアメリカのTVドラマ「アーノルド坊やは人気者」や「奥さまは魔女」を2か国語放送(当時は副音声と言ってた様な気がします)で流し見したり、本の名前は覚えていませんが、ペンパル募集欄でベルギー在住の同い年の子を見つけ、我流で文通を始め、返信の中に出てくる教科書では見たことがない単語や当時の自分には辞書を見ても理解ができない文章に対してワクワク感を持って毎日を過ごしていましたので、今考えればかなり偏った変わった子でした。修学旅行では宝塚、京都で、初めて英語を母国語とする人を相手に、自分で考えた英語のフレーズを使って話した経験と勇気が大きな自信となり、更に一歩進むための背中を押してくれた時期でもありました。初めて英語で話したのが中学2年生。当然、Vocabularyは教科書以下、英語の基礎もなく、聴く事もできない頃でしたので、ただただ、自分の欲求のみで絞り出した勇気とその後への大きな一歩でした。当時の私は当然パーフェクトを目指している訳で、単発で終えられて、相手にも違和感を与えない自然な会話、自分も話したと実感できる会話を一生懸命考え、結果的に時間を尋ねるというシナリオに行きつき、心臓がとまるぐらいのドキドキを感じながらも話しかけて、ちゃんと聞き取れたのが、何とも言えない快感で、次への大きな一歩に繋がりました。

 

話す英語に向かって:

高校時代、「話す英語」に対する興味がドンドン膨み始め、発音を練習した時期でした。授業中の本読みはカタカナ英語。授業外では自分が求めていた発音を追求。思いつく事はとにかく何でも実行していました。その中でも、高校時代に出会った英語のスピーチが、その後の人生の大きなターニングポイントになったのは間違いありませんでした。この頃は、住んでいるところが田舎すぎて、県外に出ることも想像出来ないぐらいでしたので、英語弁論大会の副賞がアメリカ1ヶ月間のホームステイと聞いても現実味のないフワーッとしたものでしかありませんでした。寧ろ、それよりも、最大の興味は、人前で誰にも邪魔されずにまとまった時間英語で話し続ける事で、それが最初の参加を決めた理由でした。最初の出場で3位を貰った時に、初めて、ギリギリアメリカ行きを逸した事に気付き、初めて、アメリカに行きたいという何とも言えない悔しさを感じ、絶対にいくと思った時に、翌年も再挑戦することを決め、2度目の出場で優勝、ワシントン州タコマで1ヶ月間ホームステイ。この経験で初めて「日本に帰りたくない」を経験し、同時に「絶対にまた戻ってくる」との強い思いが生まれ、関西外大入学、ESSへの入部、米国留学を始めとして、その後の私の進む道に多大なる影響を与えてくれました。

 

大人になるにあたってのアドバイス:

大学時代、ESSに入部。留学生との交流に特に力を入れ、スラングや英語独特の表現を覚え「英語を母国語にする人には理解されるけれども、日本人には簡単には理解されない英語」を常に目指していました。大学時代に出会った友人や仲間と一緒にディスカッションやスピーチ等対外イベントや合宿などのクラブ内イベントへの参加は絶対に忘れることのない思い出ですが、それ以外に、仲間との飲み会や旅行、あの頃の自分たちなりに色々と頭を悩ませてこうあるべき論を戦わせたり、こぶしを振り上げたり、を経験し、試行錯誤しながら、物事をどう見て、どう判断して、どう考えて、どう伝えるかという英語とは違う次元での人との関わり方の基礎を学んだ時期でした。実はその辺りが大人になるにあたり大切なことで、中学生のみなさんが今後経験していく事になるというメッセージを送りました

立志式のスピーチでは具体的には触れなかったことですが、実は、楽しく懐かしい思い出ばかりだけではなく、多くの戸惑いと葛藤を経験した時でもありました。ワシントン州立大学留学時、1年間で英語を究極的に極めたいと決め、Public Speaking、Group Communicationなど、必ず毎回クラスの中で一度は話さなければならないクラスを主として取り、どうしても英語を話さなければならない環境を整えました。クラス外、一緒に留学した日本人へも英語で話す様にしていましたから、いつの間にか、誰とも上手くやっていくことができなくなっていました。一方ではアメリカ人、英語を使わなければならない日本人以外との交流はドンドン増え、留学時代は私のそれまでの集大成の場でした。然し、帰国後、自分のやりたい仕事、進みたい道が定まらず、就職活動は全て中途半端。「本当は帰国したくなかった」との正直で、強い思いが、その場を逃れようとする言い訳となり、常に自問自答を繰り返していました。そして3ヶ月間隔ぐらいでやってくる英語が出て来なくなる不安。恐怖感とフラストレーションが自分の中に焦りを生みだし、自分は本当にこれで良いのか?と考えていました。とにかく英語を忘れないように、なりふり構わず思いつくことを実行するのみでしたが、とても満足できるレベルまで到達することはできませんでした。周囲の人多くに迷惑を掛けてしまったこともあったと思います。とにかく、自分の思いに気づかない様にしながら「英語が話せる環境が最優先。知識は後からついてくる」の信念の下に、海外駐在要員として採用してもらうことのみに集中。そしてこの後から英語への関わり方が大きく変わりました。

 

 

最初の会社は修行の場。

念願の「海外要員」として採用されたものの、思い描いていた世界とは全く異なり、勤務地は大阪淀屋橋。アメリカへ出向するまでは開発営業部門に勤務し、北米向け輸出、アジア向け輸出を担当。日々、物流、貿易実務の勉強と実践、港の倉庫での検品などの雑用と接待に明け暮れる日々。本当にこの調子でいつか海外に出られる時が来るのか?自分は海外要員として採用されたのではなかったのか?海外駐在した時に自分は活躍できるのか?との不安とストレスとの戦いの日々は続きました。

 

連日、海外との交信ドラフトを英文タイプで作成。上司による検閲後は、自身では納得のいかない文章ばかりで「真っ赤」。それを清書してファックスで送受信。上司はテレックス時代の方でしたから、文字数を抑えるためと時間短縮を意図して短縮文字を多用。「正しい英語である必要はない。通じれば良い。時間との勝負。英語ではなく暗号と思え」というのが酒の入った時の上司の口癖。またある先輩方からはよく「英語が話せれば仕事ができると思うなよ」と嫌味を言われることも多く、大学時代に先輩からよく聞かされた「社会に出たら我々は英語しかないので大変」という言葉の答え合わせの日々でした。元々、知識は後からついてくるもので、基本になる言葉とコミュニケーション能力を磨くべきと信じて譲らなかったので、生意気にも「知識を持っていてもどう伝えるのですか?」「伝え方により相手の理解度は異なるし、そもそも、一つの事を一つの言い方でしか言えない人が意思疎通は出来ているとは思えない」ぐらいを腹の中では常に思っており、先輩とぶつかる事も多々ありましたが、信念はありました。

 

アメリカでの修行:

イリノイ州に来て2度転職を経験しました。最初は日本の本社を辞めて現地法人で現地雇用として採用して頂いた時、2回目は今の会社に転職した時。最初の会社でシカゴ現地法人に着任したのが1998年。当時30手前でした。同じタイミングで現地法人の社長として着任された方は昔の軍隊方式のマインドをお持ちの方で精神面ではかなり鍛えて頂きました。人を斬る事で大変有名で、恐ろしく個性が強く短気。「My way is the only way」の方で、ストライクゾーンが針の穴よりも小さく、その小さい穴のど真ん中を余裕もって通せなければ即アウト。失敗をPositive Reinforcementでご指摘頂くのではなく、先ず「責任の追及」とそれにもれなくついてくる昼夜関係ない数時間の説教と始末書。今でも忘れられないエピソードはたくさんありますが、その中でも最上級のものは、当時隣に座っていた別商売担当の駐在員の先輩の失敗のとばっちりで、「お前とお前は俺がよしというまで休みなし。アメリカの休みはアメリカ人の休み。日本の休みは日本にいる日本人の休み。土日は勿論のこと、毎日出社。会社で仕事。仕事がない時はトイレ掃除」と。この状況が2年継続。当時の副社長に間を取り持って頂きようやく通常に戻れました。

 

苦い経験と夢に向かって:

シカゴ着任から数年後、現地スタッフのリストラ命令が浮上。着任時に20人いた部下を最終的には3人にせよとの指示。リストラはそれだけでは留まらず、駐在員にも派生し、とうとう「帰国となるからそのつもりで。。」との内示を受領。アメリカへ赴任する際、自分で納得が出来る事をやり遂げるまでは絶対に帰らないと強い意気込みを持っていた事、そして、留学から帰国した時に持った「一度日本に帰ると次いつ出られるかわからない不安」はもう二度と経験したくないとの思いから、思い切ってLocal化を志向し、当時の直属上司の副社長に相談。ローカルになるための段取りと本社/社内調整を行って頂きました。覚悟はしていたものの、いきなり、給料は半分カット、契約は1年更新。それまで駐在員として頂いていたベネフィットはなくなり、出費は一気に増え、苦しい日々が続きましたが、「それでもアメリカに居られる権利を買ったのだから我慢できる」と常に自分自身に言い聞かせていました。それよりも、当時の最大の脅威と懸念は、会社を解雇になればビザも失効でアメリカにもいられなくなるというもの。当時の社長の下では、どこに地雷が埋まっているかわからない状況でしたので、常に緊張の毎日。グリーンカードを手にするまでは気が抜けませんでした。

 

仲間外れと和解:

Local社員となり、社長特命の案件を担当する機会がありました。リストラの一環として建屋の規模を縮小するため、在庫倉庫を外部委託にするためのプロジェクト。候補となった英国系倉庫会社に席を設けてもらい、週に1-2回出社し残りは事務所に出社。出向先から事務所に戻ると、現地人スタッフはJob Securityの懸念から社長特命プロジェクトに対し猛反対の姿勢を露わにし、直接的に動いている私がマネージメントを誤導するリストラ推進の中心人物と位置づけられ、気がついたら数名を除き、周囲から距離を置かれていました。そんな時、同僚が突然亡くなり、私は開発案件をメインに担当していたこともあり、彼が担当していた仕事を全て引き継ぐことになりました。中国、台湾から仕入れた部品を農機具メーカーへ紹介する案件。その時のアシスタントは私と距離を置いていた反対派の中心人物で、突然彼女と二人で、何もないところから、毎日喧嘩をしながら、一からスタートし、数年かけて、ようやく商売が成立し、その頃には誤解もとけていました。

開発案件に対する思い:

当時の上司の人脈のおかげにより、たくさんの方々に様々な経験をさせて頂きました。上司の指導の下、開発案件として、狂牛病の影響をキッカケに、一から始めた豚由来ゼラチンの米国内買付/対日輸出販売。商品群を増やすためにカナダのノバスコシアで見つけた魚由来のゼラチン/コラーゲンのメーカーとの契約、日本向け輸出として行った商売は大きな自信となりました。その他にも扱った商品は数多く、化粧品、キャンドル、繊維、半導体製造に使用される化成品、フロッピーディスクのアルミ盤を研磨するための砥石、スポンジ製人工皮革、鋳鍛自動車部品などなど。お陰様で新しいものを扱う事に対するアレルギーはなく、初めての物でも、初めてのやり方でも何でも柔軟に考える事ができる様になりました。

 

 

転職 への決意 – 次の場所へ:

自分で考えて思い通りに動ける様な充実感を持ち始めた頃、それまでとは明らかに異なる責任感も感じ始めていました。一方では、社内ではマネージメントの総入れ替えが行われ、それまでの社長は相談役に、新社長は、全く異なった業種から引き抜かれた方に。会社としての方向性が大きく変化。転職を決意した具体的なキッカケとなったものはあるのですが、それよりも、目指すところと目的の共有ができず、マインド自体が違うマネージメントとはやっていられないと生意気にも気付いた時点で2週間Noticeで退職。

 

大変お世話になった「ややこしい」前社長と副社長からは「お前は今、非常に良い顔をしている。人と違うことをやりたいと思う人間は、うちの会社を見切ってみんな他へ移り活躍している。着任時のお前とは違って今なら一緒に仕事をしたいと思う。自信を持って頑張れ」との言葉を頂いた時には苦しかった下積みの時期が全てオフセットされました。

 

新しい会社:

別の商社で鉄鋼販売を担当されていた副社長から、よく「鉄鋼の営業はタイミングが重要。常に夜討ち朝駆けで、寝る暇もなく、取引先とのやり取りも大変」と聞かされていた事と、今でもそうですが、鉄鋼は全く興味が湧かなかった商材でしたので、鉄鋼関係業界だけは絶対に転職しないと強く思っていた自分が鉄鋼のメーカー商社に転職し、今でもそこに勤務しています。面接の際、商社の存在価値についてどうお考えですか?と生意気にも質問し、後に上司となる方が、付加価値をどうつけるか、付け方は自分次第。商売になるなら、なんでも良いとのコメントが印象的で決定打でした。入社して任されたのは非鉄の売先開発と拡販。上司より、ほぼ新しい商売なので引継ぎはない。好きな様に開発・拡販をしてくれれば良い。その代わり、報告だけは前広にしてほしいとのこと。新しい会社でも結果的に開発メインでの営業を行い、それは今も続いています。今の会社に入社したのが2008年。前の会社よりは大きい会社ですが、下積みの時の経験を思えば、どの様な状況も全て余裕と感じられる様になりました。入社当初は医療業界の客先に注力しながら工業関係業界の客先開拓。それから航空機関係客先の開拓と人脈づくり。鉄鋼商売の量とは比較にはなりませんが、今ではその非鉄の商売が継続的な商売となりました。

 

立志式でのスピーチでのフォーカスは中高の時代に具体的な将来像を持たず、田舎町でゆっくりと流れる時間を過ごしていた私が環境的にも、時代的にも「生の」英語に触れることが難しい中で何をやっていたかの紹介。 そして、それが何をもたらせてくれたのか、学生時代を終え、就職後の英語との付き合い方、そして、中学、高校、大学時代を経て変化した目標と目指す将来像、そして、「大人になる」事に対して意識しておいた方が良い事を私の目線で「興味から始まったもの、そして得たもの」というテーマでお話しました。振り返ってみると、子供の頃に描いていた「英語を話せるようになりたい」「英語の環境に常に身をおいておきたい」という思いはいつの間にか達成し、英語がなければ絶対に出会わなかった世界中の友人や取引先の方々と出会えたのだと改めて実感しました。立志式のスピーチで何十年もの後輩にどれだけのモチベーションを与えることが出来たのかは疑問ですが、個人的には自分を客観的に見つめなおす良い機会でした。

 

最後に:

現在、まだ通常勤務とはいかず、1週間の内2日在宅勤務、3日事務所勤務で、出張はコロナ前とは比較にならないほど激減しました。一方、時差関係なく、WEB MEETINGはびっしりと入っており、「働き方改革はどこ行った?」と感じる毎日です。コロナにより、会えなくなっていた人たちと、最近、ようやく、徐々に会える様になって来ましたが、約2年ぶりに会うと、白髪も増え、肥ったな、本当にやつれたな。。との印象を受けるばかりです。安心して国内・国外を行き来できるようになるのがいつになるのか全く見当もつきませんが、コロナ禍を経験して、本当に、いつ何が起こるか分からないので、やりたい事は出来る時に。。との思いは強くなりました。いつかコロナの脅威レベルが下がり、世界各国の水際対策が緩和されれば、これまで積み上げてきた前述の全ての経験と知識、人間関係を駆使して、行きたいところで、大好きなワインと現地の美味しいものを食べながら、ゆっくりとした時間を楽しむ事を夢見ながら毎日変わり映えのない日々を過ごしています。