(OB近況) 与十田将也 (1997年卒) ESSが大学生活とその後の職業人生を充実させた!

現在の職場

大阪駅からJR快速電車で約40分、新三田(しんさんだ)駅からバスに乗ると東南元明先輩(1974年卒)がお住まいの旧住宅・都市整備公団が開発したニュータウンが整然と広がる。その中心部にある、三田市立けやき台中学校に勤めている。ウッディタウン初の中学校として開校創立30年を超え、2年目の改修工事が進行中だ。

なぜ英語教員になったか

「金八先生」をご存じだろうか。公立中学校国語教師として、都会の片隅で暮らす様々な子どもたちとともに、泥んこになって考え、もがき、現代社会や地域・学校が抱える諸問題に対峙する内容のテレビドラマで、放映当時大ヒットしていた。祖母が好きで、私も小学生時代から見ていた。中学校の先生は大変そうだけど、いいなあという漠然とした印象を持っていた。

英語の教員免許が取得可能なので、関西外大に行くなら、教員免許を必ずとるようにとは言われていた。年下の子どもたちと関わることや英語が好きで、子どもたちと共に英語を学んでいけたら楽しいだろうと感じていた。

 

教員採用試験を振り返る

採用2次試験の準備で、関西外大で出会った留学生たちや、留学時現地の方々と関わる中で感じた「お互いに認め合うことの大切さ」は、国際化社会を生きていくこれからの子どもたちにとって普遍的で大切な価値観であることに気付いた。そのことを面接で少しアピールできたことも、好印象につながった気がしている。

さらに、「今日の教育問題の多くは、子どもたちが福祉施設で高齢者と交流することで解決できると思います。」と発言したように思う。奇しくも採用後まもなく神戸市須磨区の事件が発生し、兵庫県では地域の福祉施設等各事業所で中学生が1週間活動するトライアル・ウィークがスタートした。生徒に教えるというか、本当に伝えたいことや一緒に考えたいことは、教科で点数をとることだけではないはずだ。

とはいえ、1次試験の実力がまずは大切だと言われている。英語に関しては、関西外大生は有利だと思う。20年前、私にとって幸いなことに確か教職教養と一般教養は同じ試験になっていた。1次合格後は、お世話になった中学校や高校の校長先生に相談しアドバイスをいただくなど、言うだけでなく、できる行動をしておくことも、熱意を伝えることに繋がると思う。実際、「2次試験までに何をしましたか。」と尋ねられた。

就職活動全体を振り返る
 教育実習期間は中断したものの、実は就職活動で大阪の街中を足が棒になるまで歩き回った経験もある。夏服の時期になっても内定が得られず、社会で必要とされていないのではないかとすら感じた。そんな中、面接では受験する企業ごとに、そこで本当に勤めたいと思って話すのがいいと聞いた。それは、的を射ていると思う。各企業は、そこでどれだけ熱意や使命感を持って勤めたいと思っているか、見極めようとしていると思うからだ。結果として、面接試験の場数は踏むことができた。

見栄えも、大切だと思う。採用が決まった就職試験では、コンタクトレンズ着用で、北浜三越バーバリーで新調の10万円もした夏物スーツも雄弁に語ってくれたことを、付け加えておきたい。しっかりして見えるので、ぶかぶかでなく、無地がいいらしい。ネクタイはレジメンタルストライプ。スーツかシャツの色が入り、少し熱意の赤色も入っていた方がいいと言われていた。ベルトと靴は黒色に合わせる。鞄、時計のバンドも黒色に合わせるとなおいいと思う。最近私は、茶色で合わせている。

勤続約20年の中学校英語教育で感じる事

勤続約20年の間に、生徒をとりまく中学校英語教育の環境も徐々に変わってきた。初任時は、自分も慣れないことばかりだったが、カタカナ的なリズムや発音に固執する生徒の存在に困った。最近は小学校から英語活動、英語教育が始まり、本物の英語発音に早い時期から触れる機会が増え、かなりリズム感が良くなってきている。しかし、日本語50音を駆使して英語っぽく発音しようと、四苦八苦する様子も見られる。LRFVthなどの発音は、日本語の発音でいくら探してみても無い。文化的背景も違う。ある程度知らないと、話がかみ合わない。普段から世界の人に伝わる英語にする工夫練習の必要性に、分かったつもりになっている生徒に少しでも気付かせたいと感じている。

教科書も、大きく変わった。初任時には、白黒印刷でCD音声を使って指導していた。最近ここ10年で、カラー印刷になっただけでなく、デジタル教科書(電子黒板)が導入された。さらに今年2021年からは、コロナ禍対策、GIGAスクール構想の一環としてタブレットが各自利用できるようになった。教科書や問題集にはQRコードが付き、ようやく生徒が無料で教科書音声にアクセスできるようになった。

私の密かな喜びは、関西外大、ESS部や留学で身につけられた内容を、目の前の子どもたちに紹介できることだ。教科書の内容に関連して、大学時代に考えたり感じたりしたこと、知りえた海外事情の一端を紹介できることは本当にうれしい。

 教員生活から得た喜び

地元で勤められたので、当初は高校時代の同級生の兄弟らしき生徒もいた。最近では、高校や大学時代の知り合いの子どもたちと出会うことが多くなってきている。関わった子どもたちの中には、関西外大に進学したと聞く者や、海外で勤めた者も何名かいる。学級文庫で高校を出ないと理髪師になれなくなったことを知った生徒は、神戸の私立高校へ3年間頑張って通い、無事家業を継いだ。東京で学び、働いて磨いた技術はなかなかのものだ。今では、毎月散髪と毛染めでお世話になっている。毎月の散髪で若作りして昔に戻った気分になり、当時の生徒たちや私の級友たちが元気にしていると聞くことが、今の私の楽しみになっている。

EFEL会を通しての出会い

EFEL会を通して、田中博之先輩(1981年卒)に出会えたことは奇跡だ。大先輩とは恐縮ながら、大きな共通点がある。出身の三田学園中学校高等学校でも、ESS部に所属していたことだ。バックボードや小道具を自作する、大掛かりな英語劇が部活毎年恒例の大行事だった。大河ドラマ俳優田中未央さん(晴天を衝け、田沼意尊重役)と、同じ舞台に立たせてもらったこともあった。ESS部ではないが、俳優のにわつとむさんも同級生だ。

写真添付=熊本震災ボランティアで再会したESSの先輩と(左が私)(2016年、熊本市)

 

 

充実したESS/交換留学時代

継続して所属した大学のESS部は、授業のみの繋がりで希薄になりがちな友人関係や大学生活を充実させてくれた。ディスカッションセクションでは、立命館、阪大といった他大学の学生たちと、英語で渡り合う難しさに気付いた。刺激になり、関西外大やESS部、交換留学で英語研鑽をする大きなモティベイションになった。また、尊厳死、脳死、EEOL(男女雇用機会均等法)など人権問題について調べ、考え、英語で語ろうとしたことは、今でも学校現場で大変役立っている。

阪神大震災で実家は半壊になったが、アメリカロードアイランドへ交換留学させてもらった。丁度戦後50年で、ワシントンのスミソニアン博物館では、予定されていた原爆写真展が反対意見多数で中止されるという出来事も現地で目の当たりにした。ESS部やIESプログラムで普段から英語で考え、聞き発言していたことが、大学での寮生活などで役立ったのは言うまでもない。

ラオス、ベトナム、中国、九州出身のアメリカ寮友と(下左から2人目)(1995年、米ロードアイランド州)

 

 

部活動などを打ち込んだことで運が開けた

関西外大には、在学当時外短と言われたマンモス短大があり、周りは女性ばかりで私は就職がとても心配だった。実際には、女性が多い印象がある職業こそ、男性が必要とされることもあるようだ。私が受験した年は、県で8クラス分くらい中学校英語教員の志望者がいた。生徒数の減少で、採用者数は減り続けていた。しかし、幸運にも採用が決まった。着任できた地元三田市は、丁度ニュータウン開発により当時人口増加率10年連続日本一で、中学校の増設が相次いでいた。私は大学時代、部活動などに打ち込めたことで、大きく運が開けたと今は思う。ESS部という活動の場があり、本当に幸運だった。今後も様々な繋がりを大切にし、できることを少しずつ増やしながら、熱意と使命感を持って子どもたちと関わっていけたらと思う。

ESSジェネミ(ジェネラルミーティング)メンバーと私(右から2人目)(1994年、枚方市)