(OB近況) 岩谷正典(1978年卒) ~ 芸は身を助く(言葉が切り拓く人生)

関西外国語大学時代

 

関西外大に入ったのは、高校時代の塾の英語通訳の先生が、「英語をやっているなら海外に留学しなけりゃ。」との助言で留学制度・単位互換がある私学を探したら当時二校ほどしかなく、関西外大に入学をしました。最初の1回生の時には、なんとなく、IGC(通訳ガイドクラブ)に入り、楽しく過ごしていましたが、当時のクラブのヒエラルキーが性に合わず、ESSの自由闊達に自分の意見が言える雰囲気に魅了され入部を決意しました。

入部後は政治経済サークルに身を置き、ESSの先輩の牧野の下宿(島荘)に行き、夜遅くまで、時には夜遅くまで勉強会(おしゃべり?)などもして多くの刺激を同輩、先輩からいただいたことを今で昨日のように記憶しています。

また、学校のお昼休みにはチェレギノ先生のランチブレイク英会話にも毎回のごとく訪問し、2回生の時に、関西外大の交換学生制度にも挑戦。最初、ビキニの女子学生がいる常夏のフロリダ大学を希望しましたが、願い叶わず、厳寒のミネソタ州のガスタバス大学への派遣となりました。当時、ガスタバス大学の学生は2000人程度、うち日本人は私1人、香港人3名、98%以上がスウェーデン・ノルウェー系の学生ばかりでした。冬の気温は-20℃から―30℃は当たり前でした。授業は最初から米国人学生と一緒にPolitical Science, Psychology, Physiology, Biology, Journalismなどのクラスを受講し、最初に、質問が「なぜ日本人は鯨肉を食べるか?」であったことをよく覚えています。(今ならいくらでも答えることができますが、当時の19歳の若き井の中の蛙な私にはどう答えてよいのか・・・?わからず素直に、反対意見を覚悟して、「おいしいからですよ。」と言ったら、クラスの全員が嘲笑ではなくて大笑いしてくれたことはいい思い出でです。)ほぼ白人系のルーテル系大学だったので、日本人は、私ひとりで、スウェーデン・ノルウェー系の学生が98%の大学では、珍しい存在だったようです。

また、カリフォルニアにESSの水野部長(当時)が来るというので、ネットもない時代でしたが、ミネアポリスからオマハ経由でグレイハウンドに乗ってバスの中で寝泊まりして3泊4日で遥々とサンフランシスコまで会いに行き、水野部長のSNOOPY・チャールズシュルツ宅の近くのホームステイ先で滞在させてもらったのはよい思い出でした。

ミネソタの冬は過酷でしたが、キャンパスでは週末のパーティーや、友達の自宅に招待をしてもらい、クリスマスの教会でのミサへの参加、鹿のハンティング、夏の清流でのマス漁、湖畔でのビアケグ・パーティーなど今のアメリカとは全く違う古きよきアメリカを体験できたことはとても幸せだったと思っています。


卒業後

入学して4年で卒業したのですが、海外に行って4年で卒業をしようとしたのがよかったのか悪かったのか?職業選択で余りにも急ぎ過ぎたため、結局はよくわからないまま社会に出てしまったというのが本当のところだったと思います。

なんとなく東急観光(東急電鉄グループの一角を占めていた会社ですが。粉飾決算で後に倒産)に入社。当時隆盛を誇っていた団体旅行の受注競争では、入札の盗聴や担当者への付け届け、夜の接待などあらゆる手を尽くしての受注競争など目の当たりにして、即、転職を決意、手短にECC外語学院に転職、更に、電子部品メーカーのローム海外部門に就職、更に、野末陳平氏の「公務員になろう。」という本に感化され、日本国憲法、現代経済学入門(都留重人先生著)、民法概論(有斐閣)などを自学し、岡山出身だったので、岡山市の公務員試験を受験、合格となりました。英語とは関係のない職場かなと思っていましたが、英語はもともと好きだったので、職場では労働時間を惜しんで?トイレでも勉強していました。アメリカから帰ったからすぐ英検の1級くらい取れると思って受験したら見事、不合格、なんとか頑張って合格して、今は英検の面接官をずーっと15年程度やっています。

再び、英語を使って(英語への覚醒)

市役所に入ってからは英語とは関係のない部署:同和対策室で勤務、国内の差別問題解消を推進する部署ですが、そこでフィリピンの方の世話をする人がいないといのことで私に声がかかり担当させていただきました。その後、その方から丁寧なお礼状があり、その話が市長と上司の眼に留まり、「一度、イギリスに行ってみない?」というお誘いがありました。「政府の外郭団体の自治体国際化協会で、今後の地方自治のあり方についての報告書が欲しいらしい。」とのこと、当時の自治省からかなりの予算付けをしてもらい3か月ほど北部アバディーンに滞在し、イギリスの各地Borough政府を訪問しました。イギリスは当時、Three Tiers Systemで地方自治が成り立っており、それをTwo Tier Systemにサッチャー政権の下で強権的に進めつつあるところでした。その歪がどのような影響を教育、医療及びイギリスの国民に与えているのかを見分して報告書をまとめてきました。当時の東京都鈴木知事も非常に興味を持っていた課題で、バブル崩壊後の本邦の地方自治への影響がどの程度になるかを見極めるため、イギリスが大きな試金石になると自治省は見ていたようです。当時、日本は圧倒的なバブルを謳歌しており、その数年後にバブル崩壊を迎えることとなりましたが、当時からバブル崩壊は既定の事実でした。何とか報告書も終え、ご褒美のスペインでの有給休暇を大好きなCosta de Solで過ごし日本に帰国し、今までの平穏無事な公務員生活に戻れるかなと思って帰国をしました。

 

帰国後、秘書課国際室勤務となり、そこで、3代の市長に連続して25年間、直接仕えるようになりました。岡山市の姉妹都市は、米国サンノゼ市、中国洛陽市、コスタリカ共和国サンホセ市、ブルガリア共和国プロブディフ市の当時4都市、またその他のアジア、ヨーロッパを中心とした留学生招聘事業、大使館、領事館との経済・文化協力事業など市の外国との交流の一切を取り仕切るところでした。

一番の思い出は、コスタリカ共和国アベル・パチェコ大統領が来日された折、「岡山市をぜひ訪問したい。」という希望が出され、外務省の儀典官からは、「なんで岡山に行くのか日本国の招待なのに。」と苦言をいただいたのですが、これには伏線があり、もともと私の方で、コスタリカ共和国を事前に訪問して大統領にお会いするなか、「コスタリカ黄金展」を提案し、岡山への訪問を打診していたことによります。ともかく外務省儀典室、警視庁との秒刻みの日程を岡山県警、JR、宿泊施設のホテルなどと何日もかけて打ち合わせ、かなり喧々諤々の議論を重ねながら日程を練り上げたのを覚えています。当日は駅の貴賓室(防弾ガラス仕様)から全行程、信号は各警察官が配置され全部青信号に切り替え、いつもなら車なら45分かかるところをわずか5分で移動するなど、終わってみると、日本の官僚機構の素晴らしさと煩わしさに感動しました。

一方で、出張で何度も世界各地を訪問するにつけ、地域格差、南北間のギャップに苛まれることもありました。特に東西ベルリンの壁が崩れた1989年以降に東側にあったブルガリア共和国プロブディフ市を訪問したところ、貧困にあえぐ市民の人たちの惨状に驚き、当時の安宅市長と何かやらなければと、まずは市民募金、加えて医療検査器具が不足しているとのことで、岡山市内の医療機関・医療機器メーカーに依頼し、中古の検査機械の提供をいただき、様々な医療検査機器を通商産業省のCOCOM(旧共産圏輸出入管理規制)をクリアしながら送ったことが思い出されます。

また、エピソードですが。別件でブルガリアを訪問して、ブルガリア国際見本市に岡山市が出展をしていた折、会場を訪れていたトレードマークのピンクのドレスで着飾った大家政子さんとお会いし、なぜかとても気に入っていただき、「岩谷<いわや>、お前のこと気に入りました。私がブルガリアにいる間、私の付き人をしなさい。」と一方的にご指名にあずかり、1週間ほど帯同させていただき、食事前のナプキンの結び係とお側用人の役割をさせていただいたことがあります。

国際課にいる間に、世界35か国を訪問、各国の日本大使や各国の元首にお会いしたり様々な、経済・文化教育事業を行うことができました。

 

 

 

田邊裕司教授との出会い

 

国際課にいる間も、もちろん英語は勉強していましたし、岡山大学教育学部大学院にも入学し修士課程で「同時通訳におけるワーキングメモリー仮説」を研究しましたが、なんとなく自分の語学レベルに疑問を感じていました。そんな時に、NHKラジオ講座講師として著名になる前の同時通訳者の田辺裕司教授とお会いする機会に恵まれました。先生に、同時通訳のご指導をお願いしたところ、快くお引き受けいただきました。ほぼ3年間、毎週ご指導をただいたことはとても幸運なことでした。先生からは、同時・逐次通訳の訓練と日本語、英語の処理方法について先生から直接指導をいただきました。先生は私よりも7-8歳年下ですが、人柄も英語も私が最も敬愛し尊敬する方で、東後勝明先生折り紙付きの英語人です。その先生の指導を受けつつ、岡山に来られた要人の通訳をする機会にも恵まれ、各国大使・領事の講演会、県知事、市長、岡山の経済界の方々の逐次・同時通訳を30回以上担当しました。特に、岡山大学で、平成11年に行った日本生物教育学会の全国大会公開記念講演でドイツハンブルグ大学のSchaefer Gerhard教授の同時通訳を担当し「理科教育の理解度と生活能力21世紀の教育ビジョン 」 Scientific Literacy for General Competences-Teaching”Subject-Transcending Subjects”at School、私のそれからの国際課長としての方向性を改めて確信することとなりました。この論文は国立国会図書館サーチで確認することができます。

 

 

一気に退職へ

 

2006年には、時の小泉政権の要請で、国政選挙に駆り出された萩原市長に代わって、高谷市長が新たに就任、直後から様々な意見が私とは合わず、国際経済課長へ転任、更には、日本三大オリエント美術館の一つである岡山市オリエント美術館副館長に異動となりました。この美術館は、著名な建築家 岡田新一氏によって設計されたもので、岡山を訪問した節には是非、訪問してみてください。

 

結局、高谷市長とはすべてにおいてリズムが合わず、妻が「だったらやめたら?そんな面白くない顔を見るのは私も本意ではない。あなたそんな我慢できる人じゃないでしょ。」その言葉に背中を押され、55歳で早期退職を選択しました。

 

通訳・翻訳の仕事は、いくらかは入ってきつつあったので、これで食べられるかなと思っていたところ、ふとECC外語学院の子供たちとの楽しかったことを思い出し、そうだ英語に関連する教育事業をやろうと決心しました。

 

現在、倉敷市で生徒数180人前後、教職員も8名余り、10年前に株式会社に変更、IELTS、TOEFL、英検、大学受験など中高一貫校を中心に高校生を主に対象として次世代を担う学生たちを指導しています。

 

東大、京大、阪大も医学部も含めほぼ毎年合格者を輩出しています。英語については英検1級、準1級、IELTS7.5 なども達成、最近では帰国子女の英語を指導して充実した日々を送っています。

 

人生よきパートナーに恵まれることがとても大切ですね。妻は私より一回り年下ですが、よき助言者で理解者です。また、組織に頼ることなく自分の才能と知力を信じて徹底して磨き上げることも大切だと思っています。これから更に年齢を経ることになりますが、もう少し事業をしっかりと継続して、これからも社会貢献しながら、有為の人材を輩出していきたいと思っています。