(OBOG近況) 若山義郎さん(1978年卒)〜ESS改革、学校改革、そしてまだ見ぬ未来へ

若山義郎です。1978年卒業で66歳。ESSでは、政治経済セクションに所属していました。
大学時代の生活を振り返ったとき、ESSの活動に多くの時間を費やしていたように思います。特に、2回生の後半から、 ESSという組織にとって激動の年となり、それまでの歩みを大きく変えていこうとする動きがありました。当然、組織や活動の在り方を改変することに対して、メンバーから賛否両論の意見が出されたのです。「このまま、セクションの活動内容を充実させればいいのではないか」という考え方と「組織自体が、井の中の蛙で終わることなく、他大学とのジョイントを核にした活動を積極的に進めていくべき」という考え方の2つに分かれたのです。当時、セクションリーダー長であった私は、セクションのリーダー会(リーコン)を何度も開催し、各セクションに所属するメンバーの意見を吸い上げ、役員会(コミティー)に諮っていく役割を担っていました。私の願いは、1人も組織から去っていくことなく、全メンバーが納得する中で、新生ESSを設立するというものでした。そのため、メンバー間で議論を交わすことは必要不可欠なことで、1つの組織が新しい道筋を生み出す重要な過程のように感じていました。誰もが、ESSという組織を大事に思うからこその話し合いであり、メンバーの熱を感じることができたのです。最終的には、3つのセクションをそのまま存続させることと、2つのセクションを廃止し、他大学とのジョイントを中心に活動する新しいセクションを創設することになったのです。そして、学部のメンバー全員に対して、どのセクションに所属するかその意志を改めて問い、自ら決定したセクションに所属し、スタートを切ったのです。それは、自分達の代でESSの歴史に新たな1ページを刻み込む瞬間でもありました。ほとんどのメンバーが、そのままESSを離れることなく、ESS自体をそれぞれの思いの中で支えていったのです。当時のESSの仲間達と、このことを今でも話す機会がありますが、良き思い出としてなつかしく感じ、つい昨日のことように楽しく語ることができるのです。更には、当時の多くのメンバーがESSを愛し、そこで出会った仲間達とより良い関係性を結ぶ中で、相互に心の絆を確かめ合い、その後の人生を築いていく礎にしていったことも、間違いのない事実であると思うのです。それ故に、私自身は、関西外国語大学を卒業したと言うより、関西外国語大学のESSを卒業していったという感覚の方が強いのです。そして、この感覚をもっていたのは、私だけではなかったように思えるのです。

2回生時代 政治経済セクションメンバーと平等院にて

大好きであったESSを卒業した後は、故郷である岐阜の地に戻り、40年以上に渡って教育に携わりました。教師になって数年が経過した昭和50年代の後半より、特に中学校において、全国的に荒廃の嵐が吹き荒れました。学校とは名ばかりで、校内で犯罪が当たり前に横行した時代でもありました。私自身もその波に呑み込まれながら、学校の正常化に向けて奔走する日々を過ごすことになるのでした。担任時代は、子ども達が、授業や学級・学年、自分のまわりにいる友達や先生を大事に思う学校づくりを目指しました。当時の子ども達に訴え続けたことは、「学級内の今隣に座っている仲間を大事にしなくて、いったい誰を大事にするのか」という1点でした。一端荒廃した学校が完全に立ち直り、子ども達やその保護者から信頼を回復していくまでには、数年単位の時間とそれに相当する知的・体力的・精神的なエネルギーが必要でした。学校によっては、おおよそ10年の時間が必要とされる場合もありました。幸いにも、私は同僚と共に学校が正常化していく過程を体験することができ、そのためにはどうすればいいのか、少しだけ理解できたように思えたのです。教育の本質的な部分の多くを、この時代の子ども達から学んだと言っても間違いではありません。また、校長を務めた10年間は、教育現場の厳しさを味わいながらも、「どんな子ども達を育てていきたいか」「どんな学校を創り上げたいか」という願いやその手立てを具体的に描いた学校経営構想を指し示し、それに沿って子ども達や保護者、職員の3者が一体となって学校づくりを進めました。そのための課題を克服しながら、自らが描く理想の学校像に近づけていくことができ、その喜びと共に理念と実践が一体化していく「ねうち」をみんなで分かち合えた時間が、何にも増して貴重な体験となったのです。

今このように、改めて教員人生を振り返ってみると、人がより人間らしく、より豊かに生きていくためには、どのようにしていくべきかを子ども達と一緒に考え、ずっと追い求めてきたように思うのです。そして、その原動力となったのは、先ほど述べた大学時代に築いた仲間との絆でした。この絆が、色褪せることなく心の奥底にいつもあり、教え子達にはどんな場であっても、人とそんな関係性を築いていくことが、より人生を豊かにしてくれることを伝えたかったのだと思います。数は関係ありません。ただ、そういう存在が、家族以外にいることに意義を感じるのです。

初任校長時代(瑞浪市立瑞陵中学校)
 退職後は、縁あって幼稚園やこども園の教育に関わることになり、6年目を迎えています。それまで幼児教育には携わったことがなく、自らの責務を果たせるのかという不安はありました。しかし、子ども達と毎日接していく中でその成長過程にふれ、小中学校の現場と何も変わらないことが、徐々に分かってきました。結局、根本的な教師の指導姿勢は、何も変える必要はなかったのです。子ども達の1年間の成長ぶりは、目を見張るものがあり、驚きの連続でした。子ども達は、遊びを通して多くのことを学びます。そして、この学ぶ姿から、友達と一緒になって成長していこうとする心を感じるのでした。教師が「子ども達から、元気や勇気を一杯もらっています」と話すことはよくありますが、正に今の私自身にこの言葉が、ぴったり当てはまるのです。子ども達のこの心と笑顔にふれる度に、生きていく元気をもらっているのです。また、幼少期の教育が、子ども達のその後の人生に大きな影響を与えていくことを、子ども達の姿を通して理解でき、教育の重要性を改めて感じる6年間となりました。更に、教職に就いて40数年という時間を経た今、教師という職業が、自分自身には天職であったと思えるまでになったのです。

現在は、教育現場を離れた後の第2の人生を毎日いかに過ごしていくかということが、私にとっては大きな課題になっています。ただ1つ言えることは、大学卒業後別々な人生を歩んできた当時の仲間達と親交を深め、新たな絆を築いていくことが、これからの人生をより豊かにしていくと確信しています。

発表会時の挨拶場面(養老幼稚園にて)
 教育とはまったく関係のない話ですが、私的には体力づくりを兼ねて、ロードバイクに5年程前から乗っています。週末になると天気が良ければ、琵琶湖まで足を運び、「奥琵琶」を拠点にして、四季折々に違う顔をみせる琵琶湖の美しさを満喫しながら、自転車を楽しんでいます。現在までの全走行距離が8000キロを越え、日本縦断を2回以上したことになります。一昨年度の晩秋には、琵琶湖一周(通称ビワイチ)約160キロを2日間かけて走破しました。その際には、妻が(大学のESS時代の後輩)車でサポートをしてくれました。今は2日間ではなく、1日でビワイチを達成しようと、週末の体力づくりに励んでいるところです。将来的には、淡路島一周(通称アワイチ)や佐渡島一周(通称サドイチ)も視野には入れていますが、体力的にちょっと難しいと感じる今日この頃であります。これから先、いつまでロードバイクに乗れるか分かりませんが、奥琵琶のよさを妻と共に味わい、できる限り長く走り続けたいと願っているところです。
※追伸・・・先日、「仕事を辞めたら、奥琵琶にちょっとした家を建てて、そこを拠点にいろいろやってみたい」と小さな夢を妻に語ったところ、「あなた一人で住めば・・・・。」と一蹴されました。

 

ビワイチ完走時          奥琵琶の春