(OB近況) 藤田哲司さん(1979年卒)〜時代遅れの〜

1979年に外大を卒業しました藤田と申します。ESSでは4年間、政経セクションに所属していました。近況報告の依頼がありましたので最近の状況と私が育ってきた過程も含めて書かせて頂きます。

2019年9月で41年程勤務しました銀行を一旦退職しましたが、退職まで勤務していた銀行の部署で引続き雇用形態を変えて、働く機会を頂きましたので現在も大手町(東京)の本店に出勤しています。

(神宮球場での野球観戦)

私が就職した41年前は、中位の都市銀行でしたがバブル崩壊、不良債権処理による金融再編を経て現在は3つあるメガ銀行の1つになりました。

私の職場は、運用商品(投資信託)を販売管理する部門です。担当業務は主に外貨建投資信託に関する業務で、事務フロー作成と販売後に海外の運用会社へ受発注を行う仕事です。

一般的な銀行実務と証券実務に加え多少の英語と外国為替の知識が必要です。私はこの仕事を投資信託の窓口販売を開始以来21年間担当してきました。銀行に就職した直後は支店勤務からです。約19年間で関西・関東の支店を5ヶ店勤務し、その主な仕事が外国為替の仕事でした。外国為替の仕事とは、外貨両替、海外送金、輸出入業務(信用状の発行、輸出書類の買取)、外貨預金、外貨貸付などです。この外国為替の知識と経験が、その後担当する外貨建投資信託の業務に役立ちました。

私の銀行員生活はざっくり言って最初の20年が外国為替業務、その後の20年が投資信託業務ということになります。毎日、朝から夜遅くまで働きました。今思えば「よく続いたなぁー」と思います。与えられた業務を着実に処理し、経験を重ねる一般的な銀行員生活でした。私は銀行に就職直後から病気や怪我をすることなく定年まで働き続ける事だけを願っていました。これは私が成長してきた過程が多少影響しているかも知れません。

私とESSでの活動が重なる前後2~3年のEFEL会会員の方はご存じと思いますが、私は身体に障害があります。当時、自分から障害を口にする事は無かったと思いますが、見ればわかります。現在ほど障害に理解のある時代では無かったからかも知れません。当たり前の話ですが、大学卒業後は親の援助を受けないで自立して生きる事が私の目標でした。きっと両親もそう願っていたはずです。両親は既に他界しましたが、生きている間に心配させるような事は無かったと確信しています。

3歳で小児マヒにかかり後遺症が残りました。脊髄性側弯症と診断され成長とともに病状は進行しました。中学2年の頃に脊髄の強制手術を受けました。この手術は病状の進行を抑制する手術でマヒを治す手術ではありません。手術は7~8時間かかったようですが担当医師より「上手くいったよ」と言われました。術後に長期入院とリハビリが必要な事は事前に説明されていましたので手術前に病院に併設されている養護学校中等部に転校しました。

私が転校した養護学校は身体障害者専門病院に併設された養護学校で、過疎地域にある学校のように中学1年生~3年生までが1つの教室で一緒に勉強します。一緒と言っても15人程だったと思います。親元から離れて病院に入院し、病院で手術や治療のない日に通学します。その養護学校には、重度の障害者が多数いました。私は恵まれていると感じた事を覚えています。

養護学校の授業レベルは普通中学とは違います。最低限の授業を消化するだけのカリキュラムで、もちろん塾や授業の補習はありません。養護学校中等部卒業後は、やっと私立高校の商業科に入学できました。

高校では簿記に興味を持ち、すぐ簿記部に入りました。授業より先行して簿記を勉強しましたので1年後、商業簿記検定2級に合格することができました。簿記の勉強はその後も続けましたが、1級は各段に難しく相当勉強しないと合格できない事がわかりました。商業科は大半の生徒が卒業後就職します。しかし、私が3年生になる前、商業科にも大学進学クラスができ大学進学の道が開けました。このまま簿記の勉強を継続して就職するか、進学クラスに入って大学進学を目指すか迷いましたが、結局、大学進学の道を選びました。簿記は大学の商学部に入ると勉強できる事を知ったのもその理由でした。進学クラスに入ったと言っても進学校の進学クラスとは違い、大学進学希望クラスなので、授業のレベルも私の学力も高かったわけではありません。だからと言って大学なら何処でも良いという気持ちにはなれず、浪人してなんとか外大に合格する事ができました。生意気にも商学部や経営学部は外大より偏差値の高い大学を受験しましたので結果すべてダメでした。でも、当時外大を受験した時、とても「雰囲気がいいなー」と思い、外大に合格できた時はうれしく思った事を覚えています。

外大に入ってからの目的は特にありませんでした。英語を深く勉強したいと思って外大を受験したわけではありません。もちろんESSに入りたいとも思っていませんでした。しかし、新入生のオリエンテーションで廊下に並んでいるときに下駄か雪駄を履いた顔の大きな人に「ESSは素晴らしいクラブで英語が話せるようになるから入部しなさい」と熱心に勧誘されました。他のクラブからも勧誘されましたが、その上級生の熱意に「ひょっとしたら英語が話せるようになるかもしれない」と心が動きESSの部室に行ったことを覚えています。これが、ESSに入部したきっかけでした。

(合宿の下見で)

私が大学に入学した時は高校時代の友人に紹介され、阪急電車の下新庄駅近くに下宿しました。ひどい下宿でした。関西大学や大阪経済大学が近く、その両大学に通う学生が多く下宿し、毎日、麻雀や競馬ばかりしていました。もちろん関西大学や大阪経済大学の学生が全てそのような学生では無いと思いますが、私もすぐに仲間に引き込まれ徹夜で麻雀することも頻繁にありました。「大学なんかレポート提出すれば単位は取れるよ」と言われ、その言葉を鵜呑みにし、「そんなもんか」と思って学年末の試験中もマージャンの誘いを受けていました。だから、最初はESSの活動もあまり力が入って無かったと思います。その結果、1回生の学年末の成績は「不可」が並んで真っ青になってしまいました。外大はきちっと出席し、勉強しなければ単位が取れない事を痛感し、このままこの下宿にいたらダメになると思い、2回生になる前に外大近くの下宿へ変わる事にしました。

私は、マージャンや競馬に明け暮れる生活から抜け出し、2回生以降は、ESSの活動に力を入れる学生生活を選びました。大げさに聞こえるかも知れませんが、これが私の人生の転機になったと思います。

外大の場合、必須科目の英語とスペイン語(第2外国語)は2単位が多く、2回生の時は再履修科目の受講で一日中授業を受けていました。2回生で最低限の必須科目を取っていないと3回生に進級できなかったので4単位の選択科目が履修できず本当に苦労しました。そして、2回生の学年末になんとか3回生に進級できた時はほんとうに涙がでました(低レベルの話ですみません)。4年間で卒業する為には、3回生も4回生も選択科目を多く履修しないといけないので引き続き授業の連続でした。でも4回生になった時、単位を稼ぐ為でもありましたが、大学生として何か残したいと言う思いで卒業論文を選択しました。卒業論文では政経セクションで取り上げたテーマが役立ちました。いや、政経セクションで様々な時事テーマを勉強していたので卒業論文を書こうと思ったと思います。

これだけ授業で苦しんでいたのに何故かESSを止めようとは思いませんでした。当時、ESSの活動が人生の支えになっていたからかも知れません。もし、ESSが英語力向上だけを目的にしたクラブであれば、授業も大変だったので退部していたのではないかと思います。私は、ESSで英語によるコミュニケーション能力向上以外に、活動を通じて様々な事を学び、生涯の友人を作り成長することができました。ESSで過ごした4年間は私の人生においてなくてはならない時間になったと思います。

(学生時代の友人との友情は今も)

特に、私が在籍した4年間はESSの改革期で、英語のコミュニケーション能力向上の為には「井の中の蛙ではダメでもっと外に目を向けないとESSは衰退する」と水野先輩、清水先輩が提唱し、セクションの一部統合により「Discussion Section」が誕生しました。その後、外大ESSは有名校からもJoint DiscussionやDebateの申し込みが増え、「ほんとうに必要な改革だったなぁー」とDis Sec. 誕生後に感じました(当時、私は政経セクションの存続を主張していましたが《笑》)。

大学卒業後の社会人生活はけっして人に誇れるような働き方ではありませんが、今振り返れば「これで良かったんだ」と思っています。

大学進学時、関西外大を志望される方は英語が得意で将来英語を使える仕事に就きたいという希望をもって入学される方が多いと思います。私は前述のとおり入学時は目標も持たず外大に入りましたが、ESSに入部したことで、楽しく有意義な学生生活を送る事ができ感謝しています。

最後に私がカラオケに行けばときどき歌う歌の一節で締めさせていただきます。

「・・・・目立たぬように はしゃがぬように 似合わぬことは無理をせず 人の心を見つめ続ける時代おくれの男になりたい。(河島英五)」

EFEL会の皆さんのご健康と今後の活躍をお祈りしています。失礼しました。