(OB近況) 勝田裕己 ― 1984年卒 ~英語を教えることを生きがいに39年

令和3年3月に退職年齢を迎えましたが、引き続き再任用教員として中学校でフルタイム勤務をしています。大学入学後からこれまでの教員生活を振り返ってみたいと思います。

(1)大学生活

愛知県出身の私が初めて、一人暮らしをしながらの生活が始まりました。以前より高校の英語教師になることが目標だった私は、大学のクラブ活動については片手間でする程度のつもりでした。 入部するならば英語部かな、という気持ちでESSを選びました。入部して間もないころ、外大キャンパスの近くの公園で大学生が輪になって大きな声を出しているのを見かけました。演劇部かな、と思ったのですが、翌週には自分もその公園の輪の中でボイコンをしていたことを覚えています。

ジェネラルミーティングでのレシテーションの練習は原稿のすべての単語に発音記号を書いて音読練習をしたことを記憶しています。ジェネミのグループで部員の誕生日会を行ったり、楽しかった思い出がよみがえってきます。 特にリーダーの細川先輩には大変お世話になりました。色紙に書いていただいた「強引愚我道」は今でも好きな言葉の一つです。

  

 2回生になって私は、ジェネミのリーダーに立候補しました。 少人数ですが1回生にレシテーションの指導をする難しさや楽しさを経験させていただきました。この経験を通して徐々にクラブ活動が大学生活の大部分を占めるようになっていきました。牧野に住んでいたこともあり、部活動以外の時間を部員と過ごすことも多く、その経験が今でも私の財産の一つです。 当時はコンパ(懐かしい言葉)をよくしました。部員は皆、ESSのバッジをつけていました。「バッジは本当に必要か否か?」を議論したこともありました。

   

ある先輩が「皆でバッジの意義について話し合うだけでも、バッジの存在意義はある」と言われたのが印象に残っています。また、日本語禁止の合宿で1回生同士、辞書を見ながら語った時間や、初めて出場したスピーチコンテストなども良い思い出です。

学園祭が終わり、この年の12月より、3回生グレードリーダーとして部活動の運営に参加させていただくようになりました。この経験も私の進路決定に大きくかかわってきました。大学入学当時に希望していた高校教員ではなく、中学校教員を目指すようになりました。部活動を通して学んだことが生かせるのは中学校教師の仕事だと考えるようになったからです。特に、中学校の学級担任の仕事に興味を持ちました。

(2)教員生活 その1 (新任から26年間)

愛知県春日井市の中学校に赴任することになった私は、1年生の担任として、また、12クラスある学年の6クラスの教科担任、卓球部女子顧問として教員生活を始めました。 赴任して最初に、部活動に朝練習と日曜日の練習があることに驚きました。当時は土曜日は午前中授業があり、もちろん午後は部活動がありました。日曜日も午前または午後、部活動指導で出勤するので完全な休日はありませんでした。当時の日本は高度経済成長真っただ中で、「24時間戦えますか?ビジネスマ~ン」というCMソングが流行語大賞にノミネートされたことを記憶しています。私生活を顧みず働くことが当たり前の時代でした。

さて、新任として学級経営や授業がうまくいくはずもなく、2~3年間は試行錯誤の繰り返しでした。活躍できたのは意外にも部活動経営でした。競技経験のある卓球部の顧問をすることになったので、技術指導はできました。しかし、部員(特に3年生)とは良好な関係が作れず、言い争いをしていました。『3年生女子中学生6人VS新任教師』(6人対1人はきつい) しかし、3年生が引退し、 夏休みからは1、2年生だけの部員となり、生徒と一緒に運動場をランニングしたり、自分も体を動かしていたことを記憶しています。

その後、20代後半に転勤し、新しい学校で私は部活動指導で苦労をすることになりました。卓球部の顧問ではなく、全く経験のないバレー部を指導することになりました。その後はソフトボール部の顧問もしました。現在の勤務校では卓球部のサブ顧問として若い先生のサポートをしていますが、彼は卓球の経験はない先生です。学校にもよりますが、現在でも半数以上の教員が経験のないスポーツの顧問を しています。

本来は任意参加であるはずの部活動が、大部分の学校で教員は顧問を強要され、生徒も強制入部させられているのが現状です。これが教員志望者の減少の一因になっていることは言うまでもありません。

(3)教員生活その2

40代後半、私は7月の終わりから8月に約一カ月間、入院しました。  病名は「頸椎ヘルニア」でした。退院後も数年間、左腕の激痛に苦しみ、二度、手術もしました。50歳を過ぎてからは担任の仕事を離れ、外国籍の生徒に国際室で日本語を教えるようになりました。もちろん、英語は授業で継続して教えています。その頃、私はレンタルショップで塾講師の関正生先生のDVDを拝聴したことがきっかけで、自分の授業スタイルが変わりました。

彼のDVD や書籍「世界一わかりやすい~」シリーズを読みました。 『on の核心は接触 』という説明を聞き、「辞書にある10以上のonの意味を覚える必要がない」と知らされました。ちなみに私は授業でイラストを示しながら、「on は接触・継続・負担」と教えています。

また、ウサギとカメの競争からfor と to の使い方をイメージさせたりして、「なぜこの熟語にこの前置詞をつかうのか」に気づくよう工夫をしています。

  

50歳になって生まれ育った小牧市に転勤し、12年が過ぎようとしています。残りの教員生活もわずかとなりました。時には冗談も交えながら授業を行っています。「周りがうるさくてはっきり聞こえない熟語は何?」 -「正解は『and 騒音』(笑)」 最近は若い先生に私が実践してきた指導を伝達することも役割の1つかなと思い、日々を過ごしています。

OBの皆さま、現役部員の皆さまの益々のご活躍、ご多幸をお祈りしております。