(OB近況)本出良一(1972年卒)~奈良から世界が見える~

団塊の世代に生まれて
私が、滋賀県甲賀郡でこの世に生を受けたのは1948年(昭和23年)のことです。戦後の混乱期から少し落ち着きを取り戻しつつあった、そんな時代です。
私たちは「団塊の世代」と呼ばれ、人口が最も多い世代です。「ベビーブーム」という言葉も生まれたぐらいです。
私が通っていた大阪府吹田市の中学校では1クラス60人近くいて、1学年では12クラスもありました。
これはつまり、大変な競争社会を意味する訳で、高校や大学への進学、さらに就職ともなれば相当な競争状態を課せられるという“宿命”を背負わされた世代でもあります。「受験戦争」という“戦争”もあったぐらいですから。

関西外大に入学したのは1968年(昭和43年)です。枚方市の片鉾で4年生の学部が設置された3年目のこと。学園都市というにはほど遠い環境で、広大な小松製作所周辺に住宅が点在して、ぽつんと白い校舎が建っていました。

大学入学と同時に、高校時代からの友人と一緒にすぐにESSに入部しました。
なぜか?当時は「大人数で授業を受けているだけでは、とても英語を話せるレベルには到達しない」と、まことしやかに囁かれていて、「それでは」と躊躇なく英語で活動するクラブを選んだのです。
ここでも「団塊」を体験。何せ部員は200名を超える大所帯で、競争も激しくて、とにかく夜遅くまで一生懸命クラブ活動に打ち込んだものです。

クラブハウスの前で、(後列右端が小生です)

失意の就職試験、そのあとに

2回生の時に機構改革があり、それまで「ディスカッション、スピーチ、ドラマ」といったセクション分けは「政治経済、社会、宗教、文学」といった名称に変わります。
English Studying Societyは「英語学ぶ」ではなく「英語学ぶ」クラブなのだ、という問題提起があり、ESSは大きな方向転換をします。
私は「社会学セクション」を選び、ここで人生の大きな転換点に出逢います。
クラブ活動で取り組んだベトナム戦争です。
当時、毎日新聞に長期連載されていた「泥と炎のインドシナ」を執筆していたジャーナリスト・大森実氏に憧れて海外特派員を目指すことになりました。

日本を代表する通信社「共同通信社」の就職試験を受けたものの、ここも空前の受験戦争。1200人を超える応募があり、何とか最終面接の60人には残ったものの、見事に不採用。
英語を話せるだけでは通用しませんでした。私の実力はここまででした。
「これからどうすれば…」。傷心のまま大学の就職課に相談に行ったところ「マスコミだったら、こんなところから求人が来ているよ」と求人票を見せられたのが、奈良の地方紙の奈良新聞社でした。
「海外特派員から、奈良の田舎の地方新聞の記者へ。もう英語で仕事をすることもないだろう」。当初は夢と現実の落差に、落ち込んだものでした。

しかし、奈良で仕事をするうちに、色々なことに出逢うことになります。
奈良県高市郡明日香村で1972年に発掘された高松塚古」からは、「飛鳥美人」と呼ばれる極彩色の壁画が発見され、83年以降今度はキトラ古墳から「玄武」をはじめ「青龍」「白虎」「朱雀」といった四神像が次々と発見されました。
また、東大寺正倉院は校倉造(あぜくらづくり)と呼ばれています。
聖武天皇・光明皇后ゆかりの品をはじめとする、天平時代を中心とした多数の美術工芸品を収蔵しています。シルクロードを通じて遠くユーラシアの宝物も多数伝わっています。1998年(平成10年)に「古都奈良の文化財」の一部としてユネスコの世界遺産に登録されています。

奈良で出逢った本物の歴史文化
奈良新聞社では、入社10年目にして経営陣の一員に選任され、積極的に文化事業にも関わることになります。
奈良市と姉妹都市であった、韓国の新羅千年の都「慶州市」との文化やスポーツ交流事業を手がけることとなり、一人訪韓をすることもたびたび。通訳がいない場面では、日本語・韓国語・英語を交えて何とか通じたものだ。ESSで学んだ英語がこんなところで活かされ、多くの韓国人の友人もできました。

1985年(昭和60年)のこと。慶州は奈良と雰囲気が似ていて、市内には寺院や古墳が多く点在、また普門湖畔ほかメーンストリートには多くの桜が飢えられています。
ここで、韓国初の市民マラソン大会を開催することになりました。当時の韓国はまだ戒厳令が明けたばかり。
民主化を要求するデモが各地で勃発するなど正常は不安定でしたが、日本から多くの市民ランナーが参加しました。韓国の新韓銀行がスポンサーに名乗りを上げてくれて、現地のマスコミにも大きく報道されました。
このマラソンは、今も「慶州さくらマラソン&ウオーク」として続けられていて、毎年海外の参加者も含めて1万3000人ぐらいの大会に成長しています。

翌年の1986年(昭和61年)、体調の異変が発覚して、半年間の療養生活を送ることになり、奈良新聞社を退職するこことなります。その後、42歳の時に小さな制作会社を作って起業、以来30年間にわたる会社経営を続けることになります。

邪馬台国がライフワークに
この間にも歴史的な考古学上の発見が相次ぎます。特に2009年(平成21年)11月に奈良県桜井市の纒向遺跡で3世紀初頭のものとみられる大型建物跡が見つかります。
私も朝早くから現地説明会に参加、会場には何と1万人以上もの考古学ファンが押し寄せたのでした。
中国の歴史書『魏志』倭人伝に書かれた女王卑弥呼の居館跡ではないのか?
ここはまさに、あの邪馬台国の都。新聞で大きな見出しが躍りました。NHKでも特別番組を放送しました。
自身も日本の歴史は好きで、勉強してきたつもりでしたが、本当は何も知らなかった。
戦後、歴史教育を受験対策のみにおとしめてきたこの国に、精神的なアイデンティティーはあるのか?

卑弥呼の居館跡か?2009年11月の現地説明会

それからというもの、60歳を過ぎてから、纒向遺跡の発掘調査報告書や書籍を買い込み、勉強を始めます。毎年東京で開催される邪馬台国のシンポジウムにも参加しました。仕事を続ける傍ら「一般社団法人やまと文化フォーラム」を設立し、代表理事としてライフワークに取り組むことになったのです。
永年、纒向遺跡の調査に携わった統括研究員の先生をアドバイザーに迎え、ボランティア仲間を募りました。
集まってきたのは、同じ競争社会を生きてきた、あの団塊世代のメンバーです。
この春から全国で会員募集も始めます。

辺鄙な奈良の片田舎は、世界へとつながっていたのです。
奈良から世界が見えるのです。

ESS創部50周年記念式典開催〜50年誌編纂