(OB近況)野々山浩代 (1981年卒)〜どんな雲も裏は銀色に輝いている – 苦境を乗り越えて実感したシルバーライニング

その日は朝日が登る前に目が覚めた。待ちに待ったアメリカ留学への旅立ちの日だった。希望と喜びに満ちた気持ちとは裏腹に、その日は突然東海地方に台風が接近していた。「新幹線が運休となった。タクシーで羽田空港まで行くからすぐに準備するように。」と叫ぶ父の声を聞いた時、何かしらほんの一瞬だけ不吉な予感がよぎった。幼少の頃から夢見たアメリカ留学、興奮のあまりその予感が何を意味していたか12年後に気付くなどとは思うすべもなく、タクシーを待った。

 

1975年、地元では初の長期ロータリークラブの交換学生に選んでいただいたこともあり、ロータリークラブの会長さん、市長さん、高校の校長先生および担任の先生など多数の方々が自宅前に集まり、万歳三唱で見送ってくださった。その時、私は重大な役割と責任を背負って留学するのだから恥じることのないようにと肝に銘じた。当時、長期留学というのはそれほど稀で名誉なことであった。

 

飛行機を2回乗り継いで到着した場所は、モンタナ州ミズーラ市で、自然と人間が優しく調和したのどかな田舎町であった。ここでの1年は想像した以上に全てが薔薇色だった。本当に親切で思いやりのあるホストファミリーばかりに恵まれ、高校ではバスケ、ソフトボール、色んな文化行事にも積極的に参加した。日本の高校を1年留年する前提なので、単位を取るストレスもなく、言葉のハンデも気にせず、誘われればどこでもついて行った。到着するまでどこに連れて行かれるのか分からないこともよくあり、突然リバーラフティングのボートに乗せられたこともあり、その時はさすがに度肝を抜かれた。今アメリカでは、中国がコロナの発症地だったことで、アジア人への偏見が問題となっているが、その当時はそんなことは一切なく、全ての人に本当によくしてもらった。そんな充実した1年後、ホストファミリーや友人と別れを告げ、断腸の思いで日本に帰国した。羽田空港に到着した時は、日本語が流暢に話せなくなっていた。それは1年間、たまに両親と電話で早口で話す(5分で1万円)以外には、日本語を一切使っていなかったからで、完全なるイマージョン方式での英語の習得だった。

 

さて、日本に帰国したら大学受験が迫っていた。第一志望大学は見事すべったが、関西外大が救ってくれた。その時は残念だったが、外大に入学していなかったら経験できなかったであろう素晴らしい出来事がたくさん待っていた。ESSに決めた理由ははっきり覚えていないが、先輩方の気さくな雰囲気だったと思う。ESSでは1回生の時、学祭のスピーチコンテストに出た。IGCの三回生に負け、準優勝だった。それもあってかESSでは会話長を仰つかった。授業はいい加減、ESSの活動は献身、外大の交換留学でメイン州のコルビー大学に行くまで、ESSが命だった。今考えればESSは小さな世界だったが、その経験が社会人になってから多方面で身を結びことになった。

 

コルビー大学では運命の人との出会いがあった。外大を卒業し、この人と同じイリノイ大学の大学院に進むため、再び渡米した。この渡米がアメリカ永住に繫がって行くなどとは想像もしなかった。2年後イリノイ大学で修士号を取得した後、この人と結婚した。その後、夫が博士号を取得するまで、同大学とその附属高校で日本語を教えた。結婚後4年目にしてやっと妊娠し、三つ子を授かった。早産の心配もあったが、男の子2人と女の子1人が元気に誕生した。私の人生はここまで順風満帆だった。この時、あの12年前の旅立ちの日に予感した不吉な出来事が迫って来ているなどとは知る由もなかった。

 

三つ子が3ヶ月になる頃、私たち家族は夫の仕事でロサンゼルスに引っ越した。引っ越し後間もなく、信頼していた夫に突然離婚を迫られた。まさしく寝耳に水だった。女性問題で完全に裏切られ、アメリカでは頼れる唯一の人を失った。ロスには親もいない、友人もいない、車もない、お金もない、仕事もない、ないない尽くしの生活となった。幸いにも家屋だけは、離婚調停で私がキープできることになった。それ以後も、有難いことに両親や兄から経済的かつ精神的な支援を受けた。苦労をかけた家族には今でも頭が上がらない。特に今まで反抗ばかりしていた父とはこれをきっかけに本音の言える仲良しの父娘になれた。父がいかに私を陰で支えてくれていたかをその時初めて知った。これは苦難の裏に輝いたシルバーライニングだった。

離婚後、早速住み込みのお手伝いさんを雇って仕事に出た。子供たちは3人とも健康でスクスク育っていった。それが何よりもの救いだった。「八方塞がりでも天は開いている」と励まされ、最悪私がホームレスになっても、野垂れ死しても子供達には父親がいると、居直ったらもう怖いもの無し。どん底からのハードキックで海面にたどり着いた時、私はスーパーウーマンに変身していた。離婚前は地元の大学で日本語を教えることになっていたが、経済的な理由で別の職業を選ばざるを得なかった。偶然にも大手の法律事務所が雇ってくれた。それは日本がまだバブル経済で、日本語と英語が話せる女性がバイリンギャルと呼ばれ重宝された時代だった。法律の世界では1からの勉強だった。私の職務は日本のクライアントの窓口となるジャパン・デスク担当兼パラリーガルだった。初めて事務所内の弁護士に報告書を提出した時、その報告書はスペルの間違いが赤字で大きく添削された形で戻ってきた。匿名での添削ではあったが、あの時の屈辱感は、後になって私を大きく成長させてくれることになった。それ以後、公に出す書面は充分な注意を払って草稿する習慣ができた。ネイティブと同等に英語で話せ書けるよう、もっぱら法律用語を勉強し、手当たり次第参考書に目を通した。3つ目の弁護士事務所に移籍する頃には、ネイティブの上司から、英語の書面の添削を頼まれるまでになった。これはあの屈辱の裏に輝いたシルバーライニングだった。

 

でも私の本業が子育であることを忘れたことはなかった。毎日急いで帰宅し、それから本業が待っていた。朝5時に起床し、早朝に出勤、帰宅してからは食事の支度、子供たちのお風呂、洗濯を終えて就寝するのは真夜中だった。シングルマザーで奮闘していた矢先、これもまた運命なのか人生の2人目の伴侶と出会えた。その後4人目の子供で男の子を授かった。10年以上連れ添ったが、性格の不一致で離婚した。協議離婚であったため、今でも円満な関係が続いている。

24年間続けた弁護士事務所の仕事を辞め、その時代にお手伝いした顧客のビジネス・コンサルタントとして独立した。それからは顧客のグローバル・アドバイザーとしてあらゆる案件で世界を飛び回る日々となった。旅行好きの私はその世界各地で名所を訪れることができた。現在、4人の子供達は社会人としてそれぞれの分野で活躍し、2人の孫にも恵まれ、心から信頼できるパートナーと充実した生活を送っている。どん底で経験した苦労も、今ではそれが私の魂を磨いてくれた貴重な修行であったと感謝している。どんな雲も裏は銀色に輝いている。幾つか乗り越えた苦境の裏にはいつもシルバーライニングが輝いていた。