(OB近況) 賀儀山泰志(2010年卒)〜くれぐれも現役生の方々は真似しないでください

 OBOGの皆様、現役生の皆様、こんにちは。2010年卒業生の賀儀山泰志と申します。 

ESSではディベートセクションに所属し、部長も務めさせて頂きました。現在は出身地である岡山県に住み、職場は直島という瀬戸内海に浮かぶ、昨今アートで有名になっている島で芸術関連の仕事をしております。仕事以外の時間は、起業に向けての準備に忙しく過ごしております。 

まだまだ公に伝記のような記事を書くほどの身分ではございませんが、自分に対する人生の途中経過報告も兼ねて執筆させて頂きます。良ければ暇つぶしに読んでやってください。 

岡山の片田舎から大都会枚方へ 

私は岡山県玉野市の田んぼと山に囲まれた地域で生まれ育ちました。最寄り駅まで自転車で約20分、徒歩だと1時間くらい。高校生の頃は毎日40分程かけて愛するママチャリとともに雨にも負けず風にも負けず通学しておりました。暇があれば山や川、田んぼにでて虫や魚、トカゲなどを捕りまくっていたのが懐かしいです。何のためにあんなに捕ってたんでしょうか。ちなみに英語なんて全く喋れず、テストでも赤点スレスレが常態化していました。 

高校卒業後、大都会枚方にある関西外大へ入学。そうです、私にとっては枚方は大都会だったのです。その住宅の多さ、街の賑わい、そして何より駅前にビブレがあることに衝撃を受けました。ただ、私が住んでいた牧野という地域は比較的緑も多く落ち着いた雰囲気で、私のような田舎者でも問題なく住むことができました。また、川沿いの酒道場で巨大な皿に乗った超大盛オムソバを食べたいですね、もう閉店してしまったようですが。 

ESSとの出会い、ディベートセクションへ 

さて、大都会枚方に驚いたのも束の間、中宮キャンバスの美しさと留学生や外国人教員が歩き回るそのインターナショナルな雰囲気に圧倒されました。授業が始まると、クラスは帰国子女も混じっているようなレベルの高いものに押し込められ、「おおこれはヤバイ」という気持ちしかありませんでした。田舎の両親、高校の先生や後輩にも恥ずかしくないように英語を本気で勉強せねばと思い始めた矢先、クラスメートと一緒にESSの見学に行くことになりました。 

当時はディベート、ディスカッション、ガイド、ドラマ、ワールドというセクションがあ

り、全セクションの体験に行きましたが当時ディベートセクションメンバーだったY先輩のアツい英語ディベート見てディベートに入セク。同じように志が高い同期とは仲たがいしながら切磋琢磨致しました。当時行っていたパーラメンタリーディベートは京都大学や神戸大学、大阪大学などとの練習会や大会が頻繁に催されていたため、先輩に誘われて毎月のように参加しておりましたが、他大学の学生たちの多くは法学部や工学部など英語を専攻していないのもかかわず、自分たちより英語が達者で、プレゼン力や論理的思考力も高く、全く歯が立ちませんでした。練習会は本当に朝も昼も帰りたい気持ちでいっぱいでした。夜行バスに乗って東京へ出向き大会にも出場しましたが、結果は散々でした。ただ、悔しい思いを常に持ち続けられたおかげで、英語・論理・プレゼン力は向上したかと思います。 

部長を務めることに 

ESSメンバーとの交流は非常に楽しく、私の大学生活に何輪もの花を添えてくれました。安い酒を明け方まで飲み明かしたり、大量のたこ焼きをみんなで焼いてみたり、先輩と英語をしゃべりながら筋トレ・ジョギングをしたり、先輩が深夜に働くコンビニに遊びにいったり、、色んな経験をさせてもらいました。 

ESSに没頭していた私は部長に立候補・就任し、部員獲得に力を入れ前年比約3.5倍の新入部員を獲得。その翌年にはさらに増え、80人強の部員が入ってきたのを覚えています。入部当時は2,30人しか現役生がいない中での急激な部員増加でした。「大人や大学は数字しか見ない、だから数字で見返したい」という意識が当時の私の中で強く、同期を中心に部員の皆には、耐え難きを耐え忍び難きを忍んでもらいながら勧誘活動の強化に尽力してもらいました。社会に出て、異なる事業で色々なチームや組織の長をさせてもらいましたが、ESSのメンバーは優秀だったなぁとしみじみ感じております。あのメンバーで商売始めたら結構良い成績残すやろうなぁ。 

しかし、一時的に部員数は増えましたが、結局多くの人が後々辞めていきました。数にこだわりすぎて、一人一人の目標や求めるものをフレキシブルに提供するような、質に焦点を当てた環境作りが全くできていなかったためです。質は大事、これは大きな学びでした。社会人としてしばらく働いた今、商材や社員の労働環境といった質の部分を改善し続けることは非常に大事であると考えています。もちろん、売上・利益という数字の部分も欠かせない要素ではありますが。 

ケニア留学 

部長を務めた後、ケニアのナイロビに交換留学し、国際関係学を勉強しました。漠然と社会貢献となる活動を将来したいと考えながら大学生活を過ごしている中で、アフリカの貧

困問題や紛争解決の分野に興味を持ち、現地の状況を自分の目で確かめながらアフリカの社会発展について学びたいと考えるようになったためです。 

留学準備コースも無事パスし、いよいよアフリカ、ケニアへ。首都ナイロビの空港に飛行機が降り立った瞬間、また、空港から乗ったバンから見た初めてのアフリカは今でも鮮明に覚えています。 

ナイロビでの生活は案外快適でした。気候は穏やかで毎日秋晴れのような天気。ご飯も日本より素朴ではありましたが、毎日おいしく頂けました。多くの人は明る過ぎるくらい明るくフレンドリーで、岡山の片田舎からきた純朴なシャイボーイの私には良い刺激でした。 

しかし授業はとても大変でした。英語で国際法や政治、経済などを勉強していましたが、まず授業で言っていることが理解できませんでしたし、ディスカッションにも全く参加できませんでした。他のクラスメートに少しでも追いつけるように、毎晩夜遅くまで分厚い教科書を必死で読みましたが、その教科書もわからない単語と用語だらけで、毎晩頭が沸騰状態だったのを覚えています。授業は本当に大変でしたが、その分勉強になりました。 

また、ケニアでの生活で特に学んだのは「幸せ」の定義についてです。ケニアを含むアフリカの多くの国では貧困の差が著しく、貧困や紛争で苦しんでいる人がたくさんいると日本で学び、「さぞかしみんな不幸な生活をしているんだろうなぁ」と思ってケニアに来ましたが、多くの人々は笑顔が多く幸せそうにしていました。毎日1ドル程度の生活費で暮らしているスラムの人たちでさえ、老若男女ナイスなスマイルを見せてくれる人ばかりでした。母国日本は経済的に発展し、衣食住に困らない生活をしている人が大多数であるにも関わず、自らの命を絶ってしまう方や精神的につらい思いをされいる方が後を絶ちません。お金は大事だとは思いますが、それに固執しすぎて幸福という部分を軽視しないような社会発展、また、自らの人生設計が必要であると思いました。 

起業に興味を持ち始める 

ケニアでの生活と勉学を通して、ソーシャルビジネスという分野に興味を持ちました。平たく言うと社会貢献を目的としたビジネスですね。 

またそれを自分で立ち上げることによって自らの信念を曲げずに事を成すことができる、と考えました。国連や政府など公的機関や国際NGOでは自分が思う社会貢献ができないと思ったことがきっかけです。 

そして、自身の事業を通して、まずは自分の周りの人たちに幸せをお裾分けできるようにしたいと考えるようになりました。マザーテレサがノーベル平和賞を受賞したときのインタビューで「世界平和のためにわたしたちはどんなことをしたらいいですか?」という質問を受け、彼女は「家に帰って家族を大切にしてあげてください」と返答した話を聞いて、それまで遠い世界ばかりを見ていた私は衝撃を受け、自分の考えの変化に大きな影響を及ぼしたためです。この辺りから将来地元で家族や友人を大事にしながらグローバルな仕事を創りたいと考えるようになりました。 

ケニアより帰国、そして社会人に 

ケニアより帰国後、セミナーハウスでRAを務めたり、NHKの番組作成を行ったり、ESSの先輩とM1に挑戦したりしながら残りの大学生活を過ごし、卒業後は東京で勤めました。「将来独立して自分で事業をするけど、とりあえずなるべく大きい企業でも務めてみよう」という考えで入社しましたが、リーマンショック直後ということもあり業務は基本朝で終わり、午後からは終業時間までグループ会社のオフィスでお茶をして暇つぶしをする日々が続きました。今思えば給料もしっかりもらえてたので条件は悪くなかったのですが、とにかく何かしたい性分・年頃だったためそののんびりした空気に耐えられずにすぐに仕事を辞めてしまいました。 

その後、「日本をもっと知るために日本一周しよう」と考えていた時、地元岡山の友人が務めるIT企業の社長とお会いし、「お前おもろいな、うちの会社では毎週全国に出張する業務があるから働いてみろ。移動日は直帰じゃなくて観光してくればいい。」と提案頂き、将来起業するときにITの知識は必須であると考えていたこともありお世話になることにしました。冬の秋田は角館で食したきりたんぽ鍋、移動日を使って訪れた長野の善光寺や奈良井宿、山口の錦帯橋など全国行脚を存分に楽しませてもらいました。 

しかしもっと日本を知りたい。ということでヒッチハイクで日本一周をすることにしました。地元岡山を出発し、鳥取、兵庫と日本海側の通り北海道まで向かいました。田んぼの手植えを手伝ってブヨにかまれまくったり、大地の芸術祭で制作のお手伝いや通訳をしたり、北海道でアイヌのご家庭に寝泊まりし仕事を手伝ったり。様々な経験を通して土地土地の文化・人と触れ合いました。 

北海道を回っているとき、当時岡山で営業していた外国人専用の宿泊施設のオーナーから

「住まいのあるニューヨークに帰りたいからマネージャーとしてうちで働いて欲しい」というメールが入り、今度は太平洋側を通って急ぎ目のヒッチハイク移動で岡山まで帰りました。途中大船渡で食べたサンマの刺身はうまかった。 

B&Bなのに。。 

岡山に帰った後、すぐにその宿泊施設で働き始めました。毎日の朝食と、夕食はリクエストがあれば提供するBed & Breakfastスタイルの小さな宿でしたがゲストからの評価は非常に高く、トリップアドバイザー「外国人に人気の日本の宿泊施設」ランキングで当時19位にランクインしていました。パークハイアットやフォーシーズン等といった名だたるホテルが同じランキングにランクインしていることは後で知りました。「この順位が落ちたら辞めてもらう。順位が上がれば長く働いてもらっても良い。」と叱咤激励をオーナーより頂き、死に物狂いで働きました。 

お客様はほぼ100%欧米圏を中心とする英語話者であったとともに、ニューヨークにいるオーナーからはいつも英語で指示が飛んできていたので、日本にいながら朝から晩まで英語漬けの日々を過ごしました。大学で英語を勉強し、留学もし、その後自分でもこつこつ勉強していたので英語力にはある程度自信があったのですが、オーナーからは「君の英語は学生英語。社会人なんだからきちんとした表現でゲストとやりとりしないと。」とよく叱られました。一年後、トリップアドバイザーでのランキングは上がり、全国9位にランクインしました。当時は本当に辛かったですが、振り返るととても良い経験をさせてもらったと思います。 

京都→フランス→京都→フランス 

多くの外国人ゲストから京都の魅力を毎日のように聞き、「日本といえば京都。そうだ京都へ行こう。」と思い立ち、すぐに京都へ引っ越し働き始めました。ゲストハウスでの仕事見つけ半年ほど京都を満喫したのち、フランスに3カ月だけ短期留学に行きました。仕事で何千人という外国人観光客の方々と接し、その中で特にフランス人と笑いのツボが合うこと、また、フランスと日本は昔から文化交流が盛んであることからフランスに興味をもったためです。この時はフランスのモンペリエという街に滞在しました。 

フランスではのんびりフランス語を勉強しながら過ごし、その後また京都の同じ会社に戻りました。宿泊部門のジェネラルマネージャーを務めるとともに、フィリピンのセブ島にある英語学校の経営サポートと海外営業統括、また、留学代理店の立ち上げやラグジュアリーホテルの立ち上げなど様々な事業に関わりました。海外事業を拡大したい、けど英語が話せない社長の右腕として働かさせてもらい、国内外での経営のイロハを学びました。フィリピン、台湾、中国、ベトナムには年に何度も訪れ、その合間でカナダやニュージー

ランド、マルタ、オーストラリア等の国々にもマーケット開拓のために訪れ、体内時計がきちんとついて行っているのかよくわからない状態の日々が過ぎていきました。 

引き続き同じ企業で働くことも考えましたが、「やっぱり起業したい。」という気持ちが強くなるとともに、若いうちにフランス語をある程度使えるレベルまでもっていきたいと思うようになりました。よって、再度フランスへ。今度はリヨンという都市に一年間滞在しました。 

リヨンではフランス語を学ぶとと同時に、起業に向けての下準備を進めました。具体的にはフランスでどのような日本文化が人気、もしくは今後人気が出るのかといったことの調査を行いました。また、アート作品の販売も計画していたため、アーティストのアトリエやアートギャラリーへ訪問をしてアート市場について勉強をするとともにコネづくりに努めました。 

事業計画 

帰国が近づいた数か月前、どんな事業を始めるか整理しました。具体的には以下の通りです。 

-観光事業。インバウンド観光客をターゲットに、ホテル事業と一棟貸しビジネス。アートの島として有名な香川県の直島とその周辺地域から走り出し、その後日本全国の過疎地域や地方都市を中心に展開をしていきます。ホテル・ゲストハウス・日本家屋に泊まり、地の料理や伝統工芸制作の体験等を通して、「住むように旅をする」ゲストが満足できる場と時間を提供します。 

-「田舎」地域にCo-workingスペースを作り、世界中からITフリーランサーやIT企業を誘致。そして彼らと地元企業・職人・アーティストのコラボを促進。「いいものを作っているのになかなか売れない」という課題を、IT利用と海外顧客の取り込みにより解決します。 

-古民家・廃ビル・工場を使ったアートギャラリーとアトリエ。地方都市・田舎地域・下町といった地域において地元と海外アーティストの作品を展示するとともに、アトリエの貸

し出しを行います。「創造の波」を都市部以外の地域でおこし、土着の「流れ」を汲み取った作品制作を促進します。作品や作家との交流を通して「こんな考え方・価値もあるんだ」と地域の若者に感じてもらうと同時に、アーティストには創造力をより掻き立て小資金で生活ができる環境での制作活動を行って頂くことができます。また、私の経営と海外市場開拓の経験を活かし、そのアーティスト達の作品を国内外に発信します。 

-飲食業。「今後の飲食店はコミュニケーションに特化していく」という考えを軸に、インバウンド観光客も近隣住民の方も足を運んで頂ける店を作ります。また、既存の飲食店があまり行っていないと思われる積極的なIT利用による作業の効率化と発信力の強化により、労働時間や給与面においてより良い職場環境を築きます。 

-輸出業。日本の伝統工芸品、食品やお酒、アクセサリーや絵画等のアート作品・商品といったものを世界市場に卸します。フランスを中心とするヨーロッパ市場、また、北米や中国を中心とするアジア市場も視野に入れております。本事業に関しましては、まずは私の資本がある程度構築されてから開始したいと考えております。 

-教育事業。外国語学習、国際理解、留学の支援。具体的には外国語塾と留学代理店、また、既存の学校や大学との協同も視野に入れております。前職でのノウハウを存分に生かし、よりクオリティの高い教育・サービスを提供します。 

いきなりすべて始めることは不可能なので、社会情勢と自身の状況を観察しながら一つずつ形にしていく計画でした。 

遂に起業じゃ!と思いきや。 

そして、2020年2月に地元岡山に帰郷し、いよいよ自分で起業だ!と動き出した矢先、Covid-19がやってきてしまいました。ほんとにすごいタイミングできたなぁという思いです。けど、運が良かった。コロナが流行る直前にフランスを出国し、投資をする前に起業の時期を遅らせることができたためです。起業した直後にコロナが蔓延していたら、今頃私は借金地獄です。 

現在は起業までの繋ぎとして働き始めたベネッセアートサイト直島のアート管理部門で務めながら、移動式ギャラリーカフェ&バーでの事業準備を着々と進めております。昭和チックなクラシック軽トラに数寄屋を建造し、カフェ&バーとしての営業をしながら絵画を中心とするアート作品の販売を行います。 

この移動車、凄腕の一級建築士さんに設計してもらい、施工は宮大工さんに行ってもらいます。まず販売するのは現代アートの抽象画で、こちらもクオリティが非常に高い作品を扱わさせて頂きます。前例のない稀有なビジネスですが、楽しく進めていけたらと思います。私の挑戦はこれからです。 

こんな私ですが、何かお聞きになりたい方、また、今後の私の事業に興味のある方はお気軽にご連絡ください!オンライン・オフラインでのインターンやボランティアも随時募集しております^^ 

羽ばたけ自分! 

kagiyama627@gmail.com 

https://www.instagram.com/hiroshi_kagiyama 

賀儀山泰志