(OB近況) 速水敦子 1979年卒~我が半生アメリカと共に

EFEL会OB近況報告 (速水敦子 1979年卒)

EFEL会会員の皆さま、こんにちは。外大ESS在籍中は「政治経済セクション」に入っていました。このOB近況報告に同じセクションの先輩・同輩・後輩だった方々数人が既に寄稿されていますが、「南北問題」「中国革命」「ロッキード事件」等、当時のホットな時事問題について皆で英語で議論したことが思い出されます。

どういう経緯でESSに入部したのかは正直のところ覚えていません(たぶん誰か先輩に勧誘されて入ったのだと思います)が、当時はESSとIGC(通訳ガイドクラブ) が外大の2大クラブで、両クラブの現役メンバーが入学式当日から新入生を熱心に勧誘していたのを覚えています。大学に入って「少しでも英語が話せるようになりたい、でも通訳ガイドには興味がない」と思いESSを選んだのですが、自分にとって賢明な選択だったと思っています。ESSでの経験が現在の自分のバックボーンとなっているからです。4年間の在学中に出会った仲間と一緒に「良く学び、良く遊んだ」大学生活は大切な思い出として今も記憶の中に刻まれています。

渡米(英語学校から留学へ)
1979年、外大を卒業して3か月後の6月1日に、現在も住んでいるロサンゼルスに来ました。きっかけは、大学の四回生の夏休みに故郷の和歌山県那智勝浦町に姉妹都市であるMonterey Park市(ロサンゼルス郊外)から二人の女性が親善使節として訪れており、町役場から通訳兼案内役を頼まれました。町内の観光やいくつかの歓送迎会に同行し、滞在の終わりには奈良・京都を案内して、そのまま羽田空港で帰国の途に着くのを見送りました。彼女達と過ごした2週間はとても楽しく有意義で、苦労しながらもなんとか意思疎通が出来たのはESSでの活動を頑張ってきたお蔭だと思いました。彼女達がアメリカへ戻って暫くしてから、当時高校3年生だったリンダと文通が始まり、何度かやり取りするうちに「アメリカに来て自分の家で一年間ホームステイしてはどうか」と勧められました。大学卒業後は親の強い希望もあって、田舎に戻って中学校の英語教師になろうと思っていたのですが、リンダの誘いに大きく心が揺れ、アメリカ行きを決めました。大学卒業を3か月後に控えた年末のことでした。両親には「将来英語を教えるのにアメリカでの経験が絶対役に立つ、しっかりした受け入れ先がある、一年で帰国する」と言って説得し、渡米を了解してもらいました。それから急いでロス市内にある語学学校を探してI-20を入手し、学生ビザを取り無事に渡米しました。
ロスの語学学校の入学は8月半ばスタートでしたが、リンダの家族に少し早く渡米するよう勧められ、1カ月余り前に渡米しました。6月早々学校が夏休みに入ると直ぐに、その夏購入したモーターホーム(キャンピングカー)でフロリダ最南端のキーズまで、3週間の大陸横断旅行に出かける計画をしていたからです。リンダからの手紙で私も是非にと誘ってもらい、旅行に同行させてもらいました。ホストファミリーであるコタ家は、メキシコ系アメリカ人の父親、ドイツ系アメリカ人の母親、子供達は長女のリンダを筆頭に3人の妹と2人の弟の6人兄弟姉妹(8歳~18歳)、合計8人の大家族です。両親は特別裕福というわけではありませんでしたが、毎年子供達の夏休み中に一家全員で車でアメリカ国内各地を訪れ、色々なことを学び経験することを大切にしていました。その年の大陸横断旅行はこれまでの最も遠方の旅行で、家族みんながとても楽しみにしていました。夫婦が交代しながら運転し、一日10時間以上移動した日も多くありましたが、「なんとアメリカ人は体力があるなあ」と感心したものです。渡米後僅か1週間後に大陸横断旅行に参加し、家族一人ひとりの性格もまだ分からないまま、限られた車空間の中で3週間もの間一緒に過ごしたのですが、旅先の景色など楽しむ余裕は無く、みんなが話していることを理解するのに必死でした。自分の英語の理解力のなさをしみじみ感じたのを覚えています。また旅行中に酷いホームシックにかかりました。それで旅先でのことは殆ど覚えていないのですが、アメリカ南部の州を訪れた時に、当時アジア系の人間がほどんどいなかったので、周囲の人達から珍しそうにじろじろと見られたのを覚えています。また、この大陸横断旅行を通して一番強く印象に残ったのは、アメリカがいかに広大な国であるかということです。特にテキサス州内の砂漠地帯を走った時は、何時間も景色が変わらず、州の端から端まで走り抜けるのに3日ほどかかったように記憶しています。ホストファミリーにはホームステイ中に大陸横断旅行の他、グランドキャニオン、ラスベガス、フーバーダム、カリフォルニア州内ではサンフランシスコ、セコイヤ、ハーストキャッスル、その他色々なところに連れて行ってもらいました。

コタ家には予定通り一年間ホームステイしたのですが、英語の面ではホストファミリーの子供達と一緒にゲームしたり遊んだのが役に立ったと思います。特に下の3人の子供達にとって、私のように二十歳を過ぎた大人がなぜ英語が思うように話せないのか不思議だったと思いますが、私が何か言われて分からない時は、とても根気よく繰り返し言ってくれました。彼らはまだ10歳前後だったので、難しい単語ではなく、簡単な動詞(keep, get, put, take, go 等)と前置詞(at, on, off, in, out, away 等)を組み合わせた表現をよく使っていて、色々なシチュエーションに合わせて聞いているだけでとても勉強になりました。ホームステイ中、話す方は思うように上達せず、積極的に家族の会話に参加出来なかったけど、耳が徐々に英語の発音に慣れていったのを覚えています。

さて、「一年間語学学校で勉強した後に帰国」というシナリオは数か月後から大きく変わっていきました。8月半ばからバスを乗り継いで、ロスのダウンタウンから数マイルのところにある語学学校に通い始めたのですが、最初に入ったクラスは生徒の殆どが日本人(20歳代半ば~40歳代の男女数人)で、クラスメートは皆アメリカの大学や専門学校への進学を目指していて英語力の向上を図るために学んでいました。私の場合はアメリカには一年しかいられないので大学への進学など全然考えてもいなかったのですが、クラスメートから「外国人が現地の大学や大学院に入るためにはTOEFLというテストを受け、志望大学が定める点数を取らなければならない」ということを知り、自分も力試しに受けてみたところ、思いがけず高得点が取れ、外大ESSで勉強したことが役立ったのだと改めて実感しました。それで自信がついたこともあり、進学を考え始めました。その頃にはホストファミリーには不満はないものの、「アメリカに住んでいる間に同年代のアメリカ人ともっと交流して、アメリカ文化についてもっと広く知りたい」と思い始めていました。そして親を再び説得し、渡米一年後にロス市内にある大学院に入りました。ホストファミリーの近所に住んでいた日本人駐在員の奥さんから、帰国子女には日本帰国後の学校生活にすんなりと適応出来ない生徒達がいることを知り、卒業後は日本で帰国子女の為のカウンセラーになりたいと思い、Bilingual/ Multicultural Educationを専攻しました。

大学院進学を機にホストファミリーを離れて、南カリフォルニア大学の大学院で将来カウンセラーになるべくSocial Workの勉強をしていたAmyという女性と3年程一緒に住みました。Amyはそれまで出会ったどのアメリカ人女性よりもアサーティブで独立精神の強い女性でした。ニューヨークで母子家庭に育ち、成人してからはヒッピーになってアメリカ国内を点々と移動し、最終的にロサンゼルスに落ち着いたそうです。色々な面で自分とは真逆のAmyとの生活は刺激的で学ぶことが多くありました。

プラクティカルトレーニングから結婚へ
米国の大学もしくは大学院卒業後、留学生は通常一年間自分が専攻した分野に関連した企業や団体で働く許可が得られます。プラクティカルトレーニング(実習研修)と呼ばれ、学生ビザのままでフルタイムの就労が可能です。夫のマークとはこの期間中に職場が一緒だった彼の従妹を通じて知り合いました。一年間の就労期間を終えて一旦日本に帰国し、東京にある会社に就職しましたが、数ヶ月後に再びロサンゼルスに戻りました。1984年3月、両親からは祝福を得られないまま結婚しました。

仕事と子育て
結婚半年後に米国永住権を取得し、山一証券ロサンゼルス支店のベンチャーキャピタル部門に就職しました。カリフォルニア州内にあるスタートアップベンチャーを自社コンサルタントと共に訪問し、レポートを作成して東京本社に送るのが主な仕事でした。そして約7年たったころの1991年2月、夫の転職でハワイのマウイ島に引っ越しました。そのころには両親も結婚を認めてくれており、二人の娘も生まれ家族4人で移住したのですが、マウイ島に1年、それからオアフ島にもう1年住んだあと、ロサンゼルスに戻ってきました。今後の子供達の学校教育と夫の仕事の将来性を考えてアメリカ本土に戻ったほうが良いと判断したからです。戻って半年ほどして長女がキンダー、次女がプリスクールに通い始めたのですが、長女のほうはハワイで通っていた現地のプリスクールで覚えたPidgin Englishがなかなか抜けず、キンダーの先生によく直されたのを覚えています。

日本語教育
ロサンゼルス地域には日本語によって教育が行われる学校や日本語を教える学校として主に3つのタイプの学校(1.全日制日本人学校 2.日本政府補助の補習校《週一回土曜日》 3.日本語と文化を習う継承日本語学校《基本的に週一回》)があります。娘達は補習校に通いましたが、授業のある土曜日の前日金曜日は母親の私がずっと側について、一週間分の宿題と漢字テストの勉強を夜遅くまでさせたものでした。小学部はなんとか修了しましたが、その先は履修内容が難しくなるため、中学部には進みませんでした。我が家のように住まいの近くに日本人が殆ど住んでいなくて、家庭での会話が英語中心のような環境下では日本語に触れる機会が限られています。なので、小学生のあいだの6年間はこちらの現地校が夏休みに入ると直ぐに娘達と共に日本に帰国し、実家の近くの小学校で毎年1カ月余の間体験入学をさせてもらいました。アメリカの学校には無い給食や教室の掃除など沢山の異文化体験をしました。その後、中学生や高校生になっても毎年夏に帰国し、実家近くの保育園でボランティアをして過ごしました。このように子供時代に夏休みの2カ月間、日本語にどっぷり漬かる生活をしたおかげで、知っている語彙や読み書きの能力は限られていますが、今でも殆ど英語的訛りの無い日本語が話せます。既に亡くなりましたが、私の両親とも十分コミュニケーションが取れ、言葉の面で寂しい思いをさせずにすみました。ロスの家で独り留守番の夫は寂しかったと思いますが…。

近年のチャレンジ
2011年から数年はチャレンジな出来事が次々と起こりました。先ず同年6月末に7年近く勤めたバイオベンチャーの会社で社員半数がリストラに遭い、その折に失職しました。そして再就職活動を始めようとした矢先の9月初旬、大規模台風によって起きた紀伊半島大水害で実家が被災しました。実家では父の他界後高齢の母が独居生活をしていたので、私は直ぐに帰国し4カ月の滞在期間中に浸水した家具や生活用品の跡片付け及び役所での手続き等を済まし、あとは大工さんに任せれば良い状態にしてロスに戻りました。翌年2012年はすぐ隣に住んでいた義母の健康状態が悪くなり、暫く自宅で介護をしました。亡くなる前の一か月間をホスピスで過ごしたのち、8月に亡くなりました。そして義母の家の整理が終わり少し落ち着いた頃から、先頃の実家の片付けや義母の世話で股関節へ負担が大きくかかったせいか、それまでゆっくりと進行していた股関節の変形が急速に進み、常に痛みを感じて夜も寝られなくなる程になりました。そのうえ左右の足の長さに3センチほど差ができて、段々と歩行が困難になっていきました。手術は出来ればあと数年先の60歳代になってからと思っていたのですがQOL (Quality of Life)を優先して、2014年2月、57歳で人工股関節の置換手術をしました。日本では同様の手術をすると2~3週間入院するそうですが、ここはアメリカ、入院はわずか2日間でした。退院後がとても大変でした。手術で切開した箇所の痛みのせいでほとんど動かせれない脚に血栓ができるのを防ぐため、10日間自分でお腹に注射を打たなくてはいけなかったのです。病院からは理学療法士が術後3度ばかり家に来て包帯を替えたりリハビリの指導をしてくれました。教えられたメニュー通り毎日リハビリを頑張ったのですが、3カ月近く経ってもなかなか思うように歩けず「手術は失敗だったのではないか」などと思い心細い気持ちになったりしました。違和感無く歩けるようになるまでに一年近くかかったと思います。

ボランティア活動
以上のようなライフイベントを数年続けて経験した後、再就職はあきらめて今は完全リタイヤの身です。ボランティアを十数年前から始め、現在は5つのNPO活動に深く関わっています。

  1. Rising Stars Youth Leadership Program (https://www.risingstarsylp.org/

『多様化する日系社会において将来活躍するリーダーを育成する』ことを目的に日系コミュニティーで活躍する有志10人によって2003年に設立されました。このプログラムは毎年秋から春にかけての約半年間に月に1~2回土曜日の終日、日系の高校生達(定員25名)を対象にリーダー育成の為のワークショップを提供しています。参加者は①Team Dynamics ②Speak to persuade ③Assertiveness/Ethics ④Japanese American Heritage ⑤Cultural Awareness ⑥Networking ⑦College Life 101といった7つのカテゴリーで、毎回プロのインストラクターよりインターアクティブで楽しいリーダーシップトレーニングクラスを受けています。ワークショップの他には、全米日系博物館ツアーやチームビルディングの為のリトルトーキョースカベンジャー・ハントなどが含まれています。また、毎年春にはプログラムの集大成として、参加の高校生達がワークショップを通して学んだスキルを使って毎年ミニチュアゴルフトーナメントを開催しています。このイベントは私達役員の指導の下に高校生たちが中心になって企画・準備・運営するグループプロジェクトですが、プログラムの運営資金を調達するためのファンドレイジングイベントでもあります。参加高校生達が最初に自分達で目標金額を決め、寄付を募ったりラッフルチケットを売るなどして毎年2万ドル以上を集めています。アメリカでは寄付文化が根付いているので、多くの個人及び企業が寄付に応じてくれます。集まったお金は全て翌年のプログラム運営資金及び奨学資金(3人に各$1,000提供)に運用されています。

長女がこのプログラム発足の年に、そして次女がその翌年に参加しました。娘達を通してワークショップの内容を知り、日系社会にとても良いプログラムがあるのだと感心しました。設立3年目の2005年から企画・運営役員として加わっていますが、自分自身にとっても色々な意味で良いトレーニングになっています。このプログラムを通して中学校や高校の歴史の教科書に書かれていなかった第二次世界大戦中の日系人の置かれた状況や苦労を知り、戦後日系人がいかに努力して現在に至ったかを学びました。私以外のボランティアメンバーは殆ど日系3世で、この活動を通して親しくなり、そこから別な世界が広がっています。

  • RSA/JSPACC Buddy Program 

    上記で紹介した『Rising Stars Youth Leadership Programの卒業生(RSA)が日系社会への貢献をする』ことを目的として、2008年にスタートしたプログラムです。JSPACCは「Japanese Speaking Parent Association of Children with Challenges」 https://www.jspacc.org/about-jspacc.html)の略で、通称「手をつなぐ親の会」と呼ばれる会員数約200名のNPOです。ロスアンジェルスを拠点とし、障害を持つ子供達の、日本語を話す親たちが組織するサポートグループです。バディプログラムではRising Stars Youth Leadership Programの卒業生とJSPACCの障害児がペアを組み『バディ』として色々な活動をしています。私の主な役割はJSPACC側のプログラム参加者(約20家族)とのコミュニケーション・リエゾンとして活動をコーディネートすることです。活動ごとに健常児(Rising Starsの卒業生及びその友人達)のボランティアを集め、彼らと障害児との一対一のペアリングを決めるのですが、ボランティアと障害児一人ひとりの性格、障害児の言語的及び身体能力を把握した上で、ボランティア達の障害児との交流レベルを考慮しながら組み合わせを決めています。参加している障害児は主に自閉症やダウン症のお子さんで、言葉で意思疎通が難しいお子さんもいますが、殆どバイリンガルです。
    現在は主に年三回集まって活動を行っています。3月-Rising Starsの参加高校生が開催するミニチュアゴルフトーナメントに参加してバディ達が一緒にゴルフをして交流します。

  • 8月-ロサンゼルスの日系コミュニティーでは毎年8月にリトル東京を中心に「二世週祭」が行われていますが、その閉会式でフィナーレとして行われる盆踊りに参加し、お揃いの法被をきて約2時間程一緒に踊ります。
  • 12月-ショッピングモールに集まり、開店と同時のクリスマスショッピングをします。障害児達は各々の家族一人ひとりに何を買うか予め決めて来ることになっていて、ボランティア達はそれらの品物を探したりお金の支払いを手伝います。買い物が終わったあとは、ギフトをラッピングして、一緒にランチを食べ、最後にクリスマスカードの交換を行います。バディプログラム発足から参加している障害児達は現在二十歳を過ぎているお子さんも多いのですが、今なお活動を通してバディ達と交流するのを楽しみにしてくれています。因みに私の娘達はプログラムの立ち上げ当初からボランティアとして参加していて、最近では彼女達の友人も数人参加してくれています。

        

 

  1. Miss Pasadena JCI (https://pjci.weebly.com/miss-pasadena-jci.html)

南カリフォルニア地域は全米で最大の日本コミュニティーです。日系人が多く住む地区には日系コミュニティセンターがあり、日本語クラスを始め日本文化や伝統を継承するためのクラスが開かれています。ロサンゼルスダウンタウンの近くにあるリトル東京では、1934年から戦中戦後の8年間を除いて毎年8月に「二世週祭」(https://niseiweek.org/jp/)という夏祭りが開かれ、毎年様々な人種の人達が日本文化の展示や武道のデモンストレーション、パレードを観るために集まってきます。また、お祭りではロス地区の日系コミュニティーセンターや団体から選ばれた「二世週クイーンとコート」が紹介されます。2012年~13年には私の次女がコートメンバーとして他のメンバー6人と共に、ロサンゼルスの姉妹都市である名古屋をはじめ、アメリカ国内のホノルル、サンフランシスコ、シアトルの日系コミュニティーに親善訪問させていただきました。その他、一年余の任期の間に約150近くの日系団体の催しに出席して多くの人との出会いがあり、とても貴重な経験をいたしました。次女のスポンサー団体であるパサデナ日系コミュニティーセンターでは歴代のミス・パサデナと私を含む数人の母親たちで「Miss Pasadena JCI」というコミッティーを設立し、毎年新しく選ばれる『ミス・パサデナ』及び「二世週ファウンデーション」をサポートするため、年に3回のファンドレイジングイベントを催して資金集めをしています。

  1. Nanka Wakayama Kenjinkai (南加和歌山県人会)

和歌山県は、全国有数の移住者を送り出した県であり、その海外移住者は広島、沖縄、熊本、山口、福岡に次いで第6位の移民県です。南加和歌山県人会は1911年に発足し、来年で創立110周年を迎えます。
南加和歌山県人会の会員数は現在440名で、今年度より私が会の代表を務めています。会員の大半は70歳以上の高齢者で、多くは幼少の頃、1950年代後半から60年代前半にかけて和歌山県内から移民として家族と共に移住した方々です。しかしここ数年は40歳~60歳代の会員も僅かながらですが増えてきています。そのほとんどが親から代替わりした二世や三世で、英語中心の生活を送っており、昨年11月に開かれた「第一回和歌山県人会世界大会」への参加で初めて和歌山を訪問した人も何人かいました。
会の主な活動は、総会・新年会パーティー、夏のピクニック、和歌山県にルーツのある指定への奨学金授与、和歌山県への親善学生の派遣、現地日系スーパーにおける和歌山食品物産展「和歌山フェア」参加事業者との交流等です。
今後の課題・目標は高齢化の進む会において、日系3世~4世の会員子弟に会への関心を持ってもらこと、また和歌山との繋がり・交流を続けていくことです。

  1. Monterey Park/Nachikatsuura Sister City Program

モントレパーク市と故郷の那智勝浦町は1967年に姉妹都市として提携され、今年で53周年を迎えます。提携翌年から交換学生プログラムがスタートし、お互いの市町から隔年に高校生2名が親善学生として送られます。3年前に那智勝浦町出身で姉妹都市プログラム創立からずっと関わってこられた方が高齢のために引退され、その方に替わって私が那智勝浦町姉妹都市委員会とのコミュニケーション・リエゾンを務めています。その他にはモ市からの交換学生を送る際に応募学生の面接・選考を行い、選ばれた学生達に訪問全般に関するオリエンテーションを行っています。また、那智勝浦町からの訪問学生を受け入れる際は、滞在中のホストファミリーとの連絡や訪問先の手配などのお世話をしています。こちらでの生活が40年余りになりますが、滞在が長くなるにつれて自分の生まれ育った故郷への思いがどんどん強くなっていくのを感じます。南加和歌山県人会と姉妹都市プログラムでのボランティア活動を通して、自分自身と和歌山県及び那智勝浦町との繋がりが深まり、また少しでもお役に立てることを嬉しく思っています。

結びに
今年は年頭からプロバスケットボールNBAのスーパースターだったコ-ビー・ブライアント墜落死という悲しい出来事、新型コロナウイルス感染症の世界的流行と感染の拡大、人種差別や警察の暴力に対する抗議デモ及びデモに便乗した暴徒、広域の山火事等これまで経験したことのない規模の禍いが後を絶たずに起き、なかでもコロナウイルスの感染拡大は終息の目途が立たず気が休まらない日々を過ごしています。リタイヤしてから多くの時間と情熱を注いできたボランティア活動もイベントが全て中止となり、来年度の活動計画も立てられないままです。

ネガティブなことが沢山起きたここロサンゼルスですが、9月~10月にかけて地元レイカーズが10年ぶりにNBA優勝、その3週間後にはドジャーズが32年振りにMLB優勝を果たすという明るい話題もありました。そして個人的には、去る11月17日に私達夫婦に女の子の初孫が生まれたことです。コロナ禍においてもこの孫の存在が癒しを与えてくれ、またこれからの残りの人生に喜びと希望を与えてくれることと信じます。

最後に、とても長いレポートになりましたが、皆様の安全とご健康をお祈りいたします。有難うございました。