(OBOG近況) 稲垣晋介 (2001年卒)~夢は旅人~

私の子供が保育園児だったころ(今は中学生)、よく「将来は何になりたい?」と聞いていましたが、ある時「お父さん は将来、何になりたいの?」逆にと聞かれてしまいハッとしたことがあります。仕事や子育て、日常生活ですでに気持ちに余裕が無くなりかけていた中、とても衝撃的な言葉が心に突き刺さりました。30代も半ばに差し掛かった頃の話です。

 

私の大学生活を彩ったESS部ガイドセクション

2001年卒業、ガイドセクションに所属していた稲垣晋介です。岡山県内の商業高校を卒業し、得意科目だった(と思っていた)英語をもっと学びたいと思い関西外大に入学しました。もちろん出来るだけ英語に触れていたいと自ら志願して新歓祭でESS部のブースを訪れ、即、入部を決めました。旅行会社で働きたいという漠然とした夢を持っていた当時、将来に繋がると思いESSではガイドセクションに所属しました。ようやく大学内にもインターネットが普及しはじめた頃でしたので、まだまだガイドに使う情報は図書館の本からがメインでした。文章構成の難しさや、日本人なのに日本文化を語る知識が足りなすぎる自分に嫌気を感じながらもなんとか作り上げた清水寺の仁王門パートのガイド文。これが本当に海外の方に伝わるか?と少々不安でした。

ガイド活動も慣れてくると、他大学のガイドに観光客を取られまいと清水の坂の下の方にまで陣取り合戦を繰り広げていたことを覚えています。

学生時代、独り暮らしをしていましたが、まるで複数名一部屋の寮生活をしているかのように常にESSの誰かと寝食を共にしており、部活でもプライベートでもどっぷりESSに浸っていました。私は決して優秀な部員ではありませんでしたし、本当に同期や先輩方にはご迷惑をお掛けしたと思います。ですが、お互いに励ましあい、時には厳しい事でも腹を割って話し合う事ができるような仲間ができたのは私の大学生活で得たとても大きな財産です。本当に信頼しあえる関係でいることが出来たので卒業までESS部で活動を続ける事が出来たのだとESSの仲間には本当に感謝しています。

(片鉾キャンパス)の部室と文化祭屋台

憧れの旅行業界での仕事、厳しさとやりがいを知りました

就職氷河期が続いていた時期ではありましたが、卒業後の進路は旅行会社の専属添乗員として採用が決まりました。とはいえ、それまで十数社を受けて全て不採用でしたので、初めて内定通知を貰った時は本当に嬉しくて目に見える景色が全てお花畑に見えました(笑)

仕事は月半分が内勤でカウンター等の業務、もう半分が添乗業務といった感じです。添乗では国内海外問わず、沢山の国や地域を訪れました。ある月は北海道三日間の翌日に日帰りで四国88ヵ所巡り、そのまた翌日からは一週間のヨーロッパツアーなんて事もありました。

もちろん内勤も添乗も経験を重ねていくにつれ、任される仕事の難易度は高くなり、沢山失敗して、沢山お客様や上司から怒られ、沢山凹みました。旅行会社と言えば一見華やかで旅好きの学生(特に外大生!)からすれば人気の就職先だと思います。しかし、やはり仕事は仕事。ツアーの添乗員に課せられるのは、安全に行程通り旅程をこなす事、お客様に満足してもらいリピートしていただく事、そして1円でも多く会社の利益を上げる事。自分が旅を楽しむなんて余裕はありません(笑)。私が当時の上司から怒られたのはこの何かがおろそかになっていたからでした。今さらながら、改めて反省です、、。

【中国・四川省の九寨溝にて】

しかし、もちろん良い意味で思い出に残るツアーも沢山あり、トラブル続出のツアーであっても最後にはお客様から「次も絶対、稲垣さんと旅行に行きたい!」と言葉を戴いた時は疲れも吹っ飛び充実感で満たされます。添乗員をやっていて本当に良かったと思える瞬間でもありました。

【パリにて】

因みに個人的に特に思い出に残ったツアーは、「中国・万里の長城ウォーク」、「(問題続出!)アイルランド周遊ツアー」「(とある宗教団体様の)貸切イタリアツアー」等です。パナマ運河を抜けカリブ海へ渡るクルーズ船にも蝶ネクタイとタキシード持参で乗船しましたよ。関西外大とESS部で培った英会話力が存分に活かされたのは言うまでもありません。

【クルーズ船でのドレスコード 添乗員はタキシードで!】

 

人生を大きく変えた製造業への転進

およそ四年半の間まだまだ社会人としては未熟ではありましたが自分なりに一生懸命に旅行会社で仕事をし、その頃に今の配偶者である同じくESS部同期の奥さんと結婚することになりました。お互いに実家は岡山県である事、ツアー添乗員の生活と結婚してようやく会社でも認められるようになってきた頃でしたので未練が無かったわけでも無いのですが、添乗員特有の不規則な生活をしながら家庭を持つ事に私としては将来が見えなかったので、ここで離職を選びました。大好きな(^-^)大阪を離れ地元の岡山に帰り倉敷市にマイホームを建て、現在は地元企業ですが世界中にシェアを誇る船舶用プロペラを製造する会社に勤務しています。地元であっても海外への販売網があり、英語を使う機会のある職場を希望していましたの、運良く採用が決定しとてもラッキーでした。

これまでのザ・サービス業から、ザ・製造業への転職でしたのでやはり苦労をしました。しかも最初に配属された部署が製造系部門の出荷管理であったのでそのギャップに困惑し心身ともにクタクタに。作業着にヘルメットをかぶり図面や製造工程表とにらめっこして、でもよく分からない。ここでも上司や先輩に沢山怒られました(笑) そしてお客様は一般人ではなく企業であり、添乗員の時とは違いお客様からの「ありがとう」の言葉ではなく、耳にするのはクレームか問い合わせがほとんどです。そんな中ではありますが、巨大な船にも無くてはならないプロペラの製造に自分が携わり、それが世界中のコンテナ船やタンカー、客船、漁船等に使われていると思うと誇らしく思え、仕事へのモチベーションに繋がります。

こちらで勤務して今年で14年程になりますが、調達部門、人事部門を経て現在は総務部で勤務しています。沢山の人と出会える仕事ばかりで、また、使う機会は多いとは言えませんが確実にどの部門でも英語は必要で、もちろん学生時代にESSで培った力はとても役にたっています。まだまだ知識も経験も不十分でこれから先も沢山勉強していかなければなりませんが、職場の仲間や家族に支えてもらいここまでこれたことに先ずは感謝です。

【現在の会社にて 学生向け会社説明会を起こっている様子/
金比羅山に奉納されている自社プロペラの前にて】

 

将来の夢

さて、文頭で触れました大人になった私の将来の夢ですが、子供達にはこう伝えています。「旅人」と。

英語が好き、旅行が好き、を軸にして職場を選び今があるのですが、やはり、会社が敷いてくれたレールの上だけを歩んで行くのはつまらなく感じます。まだ、甘いこと言ってますが(^^ゞ

現状で家族を養い生活をする為、今の仕事を続けて行くとになんら不満はありませんが、いつかは仕事や周りのしがらみとは関係なく自分が思うままに世界中を歩き回る事が出来る旅人になってみたいと憧れています。

 

この辺で近況報告は終わりにしたいと思いますが、今回は仕事でのトラブルや失敗談は述べませんでした。多分これが一番面白いです(笑)。公共の場にさらすわけにはいかないので、機会があれば是非飲み会の席でお話できればと思います!