能登屋昭江さん(1976年卒) ~ペンネーム 能登屋あきえ~ 感動のエッセイ『父の豹変』

父の豹変                                          能登屋 あきえ

幼い頃、亡き父との暖かい思い出はほとんどない。

母曰く「うなぎの寝床」と呼ばれた徳島県郡部の寒村に私は生まれた。回りは田畑ばかりで家にはまだ水道がなかった。

その母屋から徒歩15分程の、現在も金物商を営む実家に引越したのはたぶん小学校低学年の頃であったと記憶する。

父は大酒飲みであった。夕方になるとフラリといなくなった。と言うか、正確にいうと、いついなくなったのかさえ知らなかった。そして深夜泥酔して帰ってくるのであるが、いつか床の間の高級掛け軸に放尿するのを見たのは確かに夢ではなかったと思う。

店はプロパンガスを扱っており炊事時には配達に追われ、店もあったので両親と食卓を囲むこともないし妹や兄と食べていたのか一人で食べていたのかさえも覚えていない。祖父母もいたのであるが、皆バラバラな時間に食事をしていたのであろう。

昔のだだっ広い土地に母屋から持ってきた古い日本家屋の住まい、店舗、倉庫、資材置き場、庭などがあり父ともほとんど顔を合わさなかった。その頃の父との記憶は父があの世で聞いていたら「何言よんな!」と怒られそうなお粗末なものであった。

乳母日傘で育った母は何も考えず、たった一回の見合いで父と結婚したという。たぶん父の男っぷりの良さに引かれたのでは、と私は勝手に思っていた。しかし、嫁いだ翌日から毎日牛馬のように働かされ、その上ばあさんの嫁いびりにあっていた。酔って帰った父はお嬢さん育ちの幼い母と階下で毎晩のように大喧嘩をする。私はその怒声に眠る事ができず、収まるまで階段の踊り場でまんじりともせず膝を抱えていた。今思いだしても不憫すぎる画だ。余談ではあるが隣の部屋で寝ていた妹にはその記憶が全くないらしい。さすが末っ子だ。

朝は早くからガスが切れたと電話がひっきりなしに鳴るが「お父さん電話!」と起こしても父は高いびきで寝ぎたなく寝ており、母は朝から私たちの朝ごはんを作る間もないほど東奔西走していた。私はただただ母が可哀そうで、父への嫌悪を深めていった。

そんなある日、店の通路で父とすれ違いざま多分私は父をありったけの憎しみと怒りのこもったするどい目で睨んだのだ。

その夜いつにも増して泥酔して帰宅した父はひどい心臓の発作を起こした。以前から心臓に難があって「救心」を手放せない父であったが、その日の発作は私のせいだと今でも思っている。

父には兄がいたが戦死した。その時代乗馬などしてお気楽なぼんぼん暮らしをしていた父は衛生兵として戦争に行ったが生きて帰還した。ただし兄の代わりに店を継がなくてはならなくなりその運命を呪っていたのだろうと、後に母は私の質問に答えた。

両親はよく喧嘩をしていたがずっと不仲という訳ではなかった。しかし、私が大学入試の直前に両親は離婚する、と三人の子を夜中に叩き起こして告げた。妹は泣きだし、兄はそんなもん知らん、と言い私はそれはそれでええよ、と黙って白けていた。

母の実家へ妹と3人で出戻る道すがら寒月がこうこうと広いキャベツ畑を照らしていた。妹と3人トボトボ歩きながらその光景を妙にすがすがしい気持ちで見たのを覚えている。

高校3年生の白けた私はそれでもまだ父への優しさを持ち合わせていたのか、学校帰りにこっそり父の所に寄り少し家事をして何食わぬ顔をして母の実家に戻って行った。

その後いかに父が懺悔し、改心を誓ったのか知る由もないが父は母を迎えにきて元の鞘に収まった。

その春、私は大阪の学校に進学し家を離れたが、手伝う娘がいなくなる母が可哀そうで入学式のあと別れ際に母子で涙にくれたのだった。

家を離れ両親の呪縛? から解放された私は少し男の子からもてたりして田舎娘チックな青春を謳歌した。

そして、どこでどう心を入れ替えたのかわからないが、その頃の父はいつの間にかウルトラマンのように働き者に変身し、傾きかけた古いあばら家の店をビルに建て替え、髪の毛を徐々に失いつつも精力的に働いていた。

挙句の果てに何を勘違いしたのか調子にのった父は町会議員に立候補し、間違えて当選してしまい何期か勤めた。又いつのまにか地域の民生委員などもやっていたようだ。

当時バブル景気の波に乗った父は苦労をかけた母への贖罪なのか問屋の招待も含め数々の海外旅行に母を連れていった。娘の私にすれば、あれだけ夫婦喧嘩しよってなんなん?と思うが、訪れた外国名を小さな紙切れに次々と書き出し「ようけ行ったなあ」と目を細める晩年の母の幸せそうな横顔を忘れない。

私の結婚後、里帰りの際父はよく馴染みの店に私を連れていき店のママに「娘じゃ」と嬉しそうに紹介し、ほろ酔いで当時走りのカラオケで歌ったりした。

そして父は幼い頃にあいた親子間の風穴をお金で埋める方法しか知らず、市内のブティックをはしごし好きな服を好きなだけ買え、と頻繁な大盤振る舞いぶりであった。

93歳で亡くなる前数年は施設に入り段々とボケが進行。年数回会いに行き「これ誰?」と聞くと「わかっとるよ」と私を覚えていた。帰り際には正気に戻り「もうこれが最後じゃ。小遣いもやれん」と歯のない口を大きく開け子供のように泣いていたが、その正気さが却って可哀そうだった。そして、その頃になってやっと父の骨ばった手を握る事ができた私であった。

「今自分があるのはお母さんのお陰じゃ」と最後に言われて喜んでいた母が先に逝き翌年父が後を追った。

あの時代はどこの家も貧しく、生きるのに精いっぱい。家族や親との暖かい思い出がないのは私だけではないだろう。

結局父は、まだ元気で施設に入る前、最後に晴れがましくも旭日ナントカ章をお国から頂戴した。

モーニング姿で恭しく章を頂く人物が、泥酔して掛け軸に放尿した人物と同一人物だと知っているのは幸いなことに私だけであった。